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 米国の10年実質金利(青)が2012年以来の深いマイナス幅になっている。これは10年ものの物価連動国債(TIPS, Treasury Inflation-Protected Security)が取引されている利回りであり、10年名目金利(普通の10年国債利回り)との差が大雑把に10年期待インフレ率(BEI, Break Even Inflation rate)と言われる。TIPSはインフレ率(CPI-U :Consumer Price Index for All Urban Consumers)を見て元本が調整されるため、将来実現されたインフレ率がBEI通りであったなら名目債で運用しても物価連動債で運用してもリターンは変わらない(ブレークイーブン)。
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 インフレ期待の推移は国債とTIPSの参加者が決定する形となる。TIPSは相場が荒れるほど流動性が低下するし、挙げ句の果てにFedも買っていたりするので極端な値動きは眉唾であるが、大まかな変動は参考になるはずである。足元では緑の四角で囲ったようにインフレ期待は伸び悩んでおり実質金利も下げ止まっている。
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 インフレスワップから計算される、短期のノイズを排除した5年先5年の長期インフレ期待に至っては一時2%まで戻ってきている。まとめるとコロナショックを経て米国がこれから長期的なデフレに陥ることを大半の市場参加者は想定していない
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 BEI(青)が反発した後にヘッドラインCPI(赤)とコアCPI(緑)は後追いするように反発している。一応TIPSの元本はヘッドラインCPIで決まるので前者の方が重要と思われる。過去を見ても概ねヘッドラインCPIのレンジ内でBEIは安定して推移して来た。という中でV字でなくても「回復」中でさえあれば、10年BEIが足元のヘッドラインCPIよりも下で推移するとは考えづらい。つまり一時0.5%まで落ち込んだBEIの、少なくとも1%までの反発は確実に正当化される。足元のBEIはコロナ前の1.5%〜2.0%のレンジ内まで全戻ししている。であれば、どんなに悪いヘッドラインが出て来ようといわゆるマクロ経済が資産価格に与える悪影響を心配する必要性は限定的である。3月に期待インフレが崩落して名目金利が下がっても実質金利が吹き上がった時は「金融緩和を投入しても全然マーケットに効かない」時間帯に重なっていたが、今とは雲泥の差である。
 
Bloomberg 
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 実質金利はコロナショック以来の米ドルの価値や資産価格を規定する重要な要素であったと言えそうだ。3月にFedが急速な利下げを敢行すると一旦実質金利は低下し、米ドルやや下落、金価格はやや上昇した。しかしいよいよ危機が深まってくるとTIPSが大きく売られて期待インフレが低下し、実質金利は逆に一時高騰した。それに伴い米ドルは上昇、金価格は一時下落した(米ドル実質金利の急騰により全ての資産が対米ドルで売られた)。その後危機感が和らぎ期待インフレが戻るにつれて長い米ドル安、金価格上昇トレンドに転換した。2枚目の図で実質金利が低下するにつれてヘッジファンドが米ドルのポジションを削減していったのが分かる。

 実質金利が深いマイナスになっているのは、国債利回りが市場参加者が予想するインフレ率より遥かに低いことを意味する。足元で10年1.6%程度の物価上昇が予想されるなら10年国債を足元の0.6%程度で購入すると、物価上昇に年率1%負ける(実質金利がマイナス1%)ことになる。金は貨幣から独立しておりCPIと同じペースで値上がりするとすれば物価調整後も価値が変わらない、という算段になる。利回りがない金ですら国債より魅力的に見えるので、いわんや配当利回りがあり実質成長も見込めそうな株式をやである。国債利回りは本来インフレに負けない水準まで調整されるべきであるが、積極的な金融緩和により支えられて上昇しておらず、ただ他の資産が割安に見えてきたのである。米ドルには当然ネガティブであった。まさか実質金利の低下の結果米経済が早く回復すると言って米ドルを買うなどという、アベノミクス始動を見て円を買うような動きが優勢になろうはずがない。
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 インフレ期待がさっさと前戻ししてしまった背景としては、やはり米国民の購買力が損なわれていないのが最も大きいではないか。単純な話で人々が物を買えなくなればCPIベースのデフレになる。普段なら人々の所得は雇用、賃金によって規定されている。足元では雇用はかなり減ってしまったが、その賃金の穴(下図濃い青)を埋めて余りあるほどの給付金が支払われており(下図薄い青)、以前の不況時と異なり個人所得は減っていないどころか激増している。もちろん失業保険の特例加算は7月末で切れてしまったのでおかわりがなければここから個人所得も失速してくることになる。
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 先ほど触れたように足元ではブレークイーブンが停滞しており実質金利は最低圏からやや戻している。TIPS ETFは8月に入ってから伸び悩んでおり、30年TIPS入札も滑っている巡航速度以上、或いは2月高値以上のインフレ期待に踏み込むにはさすがに材料不足というところか。もちろん、今のところチャートから反転のサインが読み取れるわけではない。単に横ばいに転じただけである。
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 これまで金利を押し下げてきたFedの国債買入れペースは足元で国債増発のペースに追い付いていない。3月から5月にかけてはFedが市中から国債を吸い上げる「ネット買入れ超」が続いたが、そこからばら撒きを賄うための国債増発が現実化するにつれて夏以降「ネット発行超」に転じている。それでも7月以降インフレ期待の上値の重さから国債を買う動きもあったものの、8月に入って30年入札が滑るなど利回りを要求する動きも見えてきた。
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 もっともその後の国債相場が示すように期待インフレも同時に萎む場合もあるので、「ネット発行超の吸収が難しいから名目金利が上がりそう」という予想は必ずしも論理的ではない。より確かそうなのは「ネット発行超の吸収が難しいから実質金利が下がらなそう」ということではないか。深いマイナス域とはいえ実質金利が上昇に転ずると、今までの米ドル安・ゴールド高・株堅調の動きの反転のきっかけになる可能性もある。それを防ぐにはFedの方も購入量とペースと年限を発行に合わせていく必要がある。

 そこでおのずとジャクソンホール講演や9月FOMCなどで観測できるFedのスタンスが大事になってくる。アベレージインフレーション(AIT, Average Inflation Targetting)やフォワードガイダンス強化によるインフレのオーバーシュートなどはあっても数年先の話なので、果たして今の期待インフレをブーストさせたり実質金利を押し下げることができるだろうか。一旦強化されたフォワードガイダンスは後でホイホイ変えると次回効かなくなってしまうので、量の拡大よりも使いづらいように見える。雇用が(毎週のミクロな変化はともかく3月以降で見ると)一応は戻ってきており、期待インフレも再びコロナ前の巡航圏で安定したところで機動性の低い施策をドカンと打ち込むには勇気がいる。

 7月分議事録で盛り下がったYCCの議論については、先達である日本人が最も経緯に詳しいはずだ。大掛かりな国債増発がないまま量的目標を掲げて金融緩和だけ進めたところ国債が枯渇しそうになり長期金利までマイナス金利深くまで沈んだため、これ以上量を増やさず長期金利を「むしろ高めに」誘導しつつ追加緩和している感を出したかったところで導入されたのがYCCである。国債増発が先に来た米国ではシチュエーションが全く逆であり、買える国債がいくらでもあるので普通に国債買入枠を増やせば(買入れペースを引き上げれば)よい。もっともこれはべき論でしかなく、量の拡充が実際に行われるとすれば市中を増発国債が溢れた時、超過準備の枯渇かレポ金利の吹き上がりをきっかけとするものだろう。 
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 2013年では実質金利がちょうどこの辺りにいた時にテーパリングの議論が始まった。もっともその時は2013年5月のテーパータントラムを招いてしまい大失敗だったし今回の方が遥かにハト的に対応したい環境であることは間違いないので▲1%だからと言って引締めはあり得ないが、追加緩和で更に下を掘れそうな水準であるとも言いづらい。一方、たとえ一時的に調整する場面があるとしても30年金利を含むホールカーブの実質金利がマイナス域で推移する時間帯は「回復期」中続くと思われる。

この記事は投資行動を推奨するものではありません。