
久々にドンバス戦線について。前回の記事はマリウポリ陥落の直前にあたる3ヶ月ほど前になるが、その後3ヶ月の戦闘の様子は前回の記事の描写の域から逸脱していない。前回の記事を繰り返すだけでその後のドンバス前線の展開の描写になる。
「(ウクライナ軍が)ここまで善戦できたのは8年間のドンバス紛争への輪番参加で鍛えた練度に加え、恐らく市街地に籠って防御に徹し、マンションを含むコンクリート建造物を利用して数と火力の不利を補ってきたからであり、それは防御で発揮した強さが都市の外に討って出る野戦では必ずしも再現されない可能性を示唆する」
「ドンバス前線は8年にわたる紛争の間にウクライナ軍によって野戦陣地が至る場所に築城され、要塞化された村とそれらを繋げる塹壕の集合体となっている」「陣地防御への依存は諸刃の剣になり得る」「近付いてきた敵に一撃与える→反撃を呼ぶ→トーチカ破壊」の繰り返しではどんな優秀な将兵も消耗してしまう。しかしそれでもウクライナ軍にとってドンバス前線の陣地を放棄する選択肢は取れない。並進を続ける敵を食い止めるためにいずれどこかで陣地戦を強いられる以上、今せっかく構築した陣地を放棄して戦場を再設定しても更に不利になるのが目に見えているからである」
「ロシア軍の方は、待ち伏せや観測砲撃を受けやすかったBTGでの突出をやめてとにかく慎重に兵力を集中し、突破口作りを装甲車の代わりに十分な準備砲撃に任せるなら、BTGを各個撃破されたり敵中に車両を遺棄するような醜態も回避できる。たとえ一部のウクライナ軍陣地を包囲したところで囲まれた方の士気が崩壊したりしそうになく、むしろ細長く伸びた第一梯隊の側背にウクライナ軍が群がって来るに決まっているので、奇を衒わず面で前進するのは合理的である。細い一本道を通って補給していたキエフ戦線と比べ、ドンバス戦線は遥かにロシア本土から近い。となると火力の格差通りにウクライナ軍がじりじりと後退を迫られる可能性が最も高そうである。火力の差は明白なので西側は戦車と自走榴弾砲をウクライナ軍に供給しようとしているが、すぐには逆転できそうにない。忌々しい長距離機動されなければ、旧式の牽引式榴弾砲と砲弾をロシア国内からいくらでも持って来られる」
もっとも戦闘経過のペースは「5/9までに勝利宣言」という話がすっかり忘れ去られるくらい遅かったので時間軸のスケール感は全く狂っていたことになる。ロシア軍にとって歩兵が貴重で市街戦が苦手なのは変わっていないが、人員の回復力と継戦能力は本ブログの予想を遥かに上回った。総動員は相変わらずできそうにないが、経済的に困窮した退役軍人をワグネルが大挙して雇用しているようである。

陸戦については開戦当初から本ブログを含め様々な人がドンバス前線の後方を南北から突破し、ドネツク人民共和国(DPR)とルガンスク人民共和国(LPR)の正面のドンバス前線に展開するウクライナ軍を包囲する大縦深作戦を予想した。その場合の大縦深作戦は当然ハリコフ~クリミアを繋げることになるが、緒戦となる「特別軍事行動第一段階」の愚かしい兵力分散と市街戦への覚悟の不足により玄関であるハリコフすら陥落させられそうにないと分かると、次はマリウポリ~イジウム間の小縦深作戦を考えた形跡があったが、それすらマリウポリ攻防戦が長期戦になると覚束なくなり、結局最終的にロシア軍が包囲の構えを作れたのはルガンスク州の一角、セベロドネツク・リシチャンスクの両都市に籠るウクライナ軍に対してのみとなった。龍頭蛇尾とはこのことである。
本ブログが一貫して述べてきたように、陸戦における部隊の戦闘力は経験によって規定される。どんなに装備のスペックが高くても戦場を経験していない部隊はまず戦場に慣れるところから始めないといけない。その意味では「特別軍事行動第一段階」ではロシア軍だけが醜態を晒し、8年間のドンバス紛争で経験を積んできたウクライナ軍の善戦が目立ったのは当然である。一方、同じように8年間のドンバス紛争で鍛えたドネツク軍もルガンスク軍も練度でウクライナ軍を下回るはずがない。ドネツク軍は緒戦ではほとんど無駄な損害を出さず、車両から降りて戦えないロシア軍に代わってドネツク軍歩兵がマリウポリ攻防戦の主力となった。
ルガンスク軍もドネツク軍と比べて報道での存在感は薄かったものの、3月にはLPR正面の敵陣を突破して快進撃を続け、ロシア軍が各所で苦戦している間にルガンスク州の9割の地域を占領していた。LPR正面のウクライナ軍はセベロドネツクとリシチャンスクを中核、ルビージュネとポパスナを両翼としたルガンスク州の残りの地域に退却して防御を固め、戦闘は一度そこで膠着した。ポパスナ近辺は8年間の紛争中に構築された対LPR軍用の防御工事があり、セベロドネツクは比較的大きな都市であり攻略には大兵力を必要とする。しかし5月になってマリウポリがアゾフスタリ製鉄所を残して実質的に陥落すると、マリウポリの市街戦から解放されたワグネル傭兵部隊とチェチェン軍、そして第8親衛諸兵科連合軍所属の第150自動車化狙撃師団が援軍として投入された。第150自動車化狙撃師団の師団長オレグ・ミチャーエフ少将が第36海兵旅団が守るマリウポリ・イリイチ製鉄所の近くで戦死していたが、これは例のごとく指揮官先頭の伝統とBTG化によるもので部隊の大半は明らかに健在であった。援軍を加えたポパスナ正面のロシア側連合軍は1万人を超え、5/7にポパスナの堅陣を一気に正面突破した。ポパスナを守るウクライナ軍第24機械化歩兵旅団は北のリシチャンスクに、第30機械化歩兵旅団は南のバクムートにそれぞれ退却した。
対照的にイジウム方面にはキエフ近郊から撤退したBTGがひしめいていたがこちらは長らく進展がなかった。ハリコフの正面のロシア軍は他に転用するために完全に撤退し、ウクライナ軍はハリコフ近郊を完全に奪還し、一時ロシア国境まで前進した。後方にハリコフを放置したままのイジウム方面からの南下をロシア軍は試みていたものの、ウクライナ軍は当然西のハリコフ方面から更にイジウムの側面を圧迫する。WW2の第二次ハリコフ攻防戦でもソ連軍が作ったイジウム突出部はドイツ軍に切断されて壊滅している。ウクライナ軍は明らかに第二次ハリコフ攻防戦の再現を狙い、緒戦からハリコフ方面の予備隊として活躍していた第93機械化歩兵旅団(奇しくも前身の赤軍第93狙撃師団もハリコフ攻防戦に参加しており、ウクライナ軍がこの部隊を引き継いだ後も脱ソ連化で2018年に栄誉称号を返上するまで「第93赤旗ハリコフ機械化歩兵旅団」を名乗っていた)をはじめとする数個旅団を集結してイジウム奪回作戦を敢行した。一説によるとこの反撃部隊はイジウムまで5キロの地点まで迫った。またブチャの虐殺に責任を持つとされる第35諸兵科連合軍所属の第64親衛自動車化歩兵旅団をウクライナ軍はイジウム戦線で捕捉し、残り100人未満になるまで打撃を与えたという。
しかしこの大攻勢も結局は龍頭蛇尾に終わってしまう。イジウムの防御が堅かったというよりポパスナの陥落があまりにも決定的だったため、セベロドネツク方面に兵力を転用しないといけなくなったからである。ポパスナを突破したロシア軍は素早く突破口を広げ、あっという間にポパスナは後方になった。セベロドネツク・リシチャンスク前線の補給線(Google Mapで国道T1302を見つけることができる)はロシア軍榴弾砲の射程内に入った。もちろんロシア軍のことなので国道を走るトラックをリアルタイムで捕捉して砲撃する能力はなく、補給線を完全に封鎖されたわけではないが、将来セベロドネツクから撤退する際に戦車や榴弾砲を大々的に敵の射程内を通って持ち帰るのは難しくなる。もし更に20キロも前進を許して国道を直接切断されたらセベロドネツク前線が完全に詰んでしまう。

ポパスナ正面突破が決定打になったのをロシア軍ももちろん理解していた。セベロドネツクの南東側の後方がポパスナなので、北西側でもこれを機に一気に正面突破して北西、南東の両方向からセベロドネツク後方の国道T1302を挟撃しようとした。これが有名なドネツ川渡河作戦である。ポパスナを突破するのとほぼ同時にロシア軍はセベロドネツク市を流れるドネツ川の上流で架橋を始め、南岸への渡河作戦を開始した。ウクライナ軍にとって敵の渡河作戦はいずれ行われるに決まっているものなので、架橋に適した渡河ポイントを特定してドローンで監視していた。ロシア軍車両が浮橋から渡河を始めた途端にウクライナ軍榴弾砲からの集中砲火が加えられた。これだけならいつもの観測砲撃であるが、5/5から5/13にかけてロシア軍が毎日損失を顧みず同じ個所で何度も架橋と渡河を繰り返し、その都度砲撃を受けて損害を拡大させていく様子に世界中が衝撃を受け、親ロシア軍ブロガーの間でも批判が繰り広げられた。挙句の果てに砲撃を避けて戦車を直接ドネツ川に乗り入れたところ、当たり前のように水没してしまった。その間、明らかに近くに配置されているウクライナ軍の榴弾砲陣地に対する反撃や空襲はなかった。この戦いで破壊された車両はドローンの映像に写っているものだけでも70両以上あり、1~2個のBTGが全滅した計算になる。この損害を被ったのはチェルニーヒウ正面から移動してきた第41諸兵科連合軍であり、正面の敵はウクライナ軍第58, 30機械化歩兵旅団と、第17戦車旅団の砲兵部隊であった。
ドネツ川渡河作戦はロシア軍上層部の戦闘指揮の柔軟性のなさと砲兵対策の弱さを露呈したが、確かにポパスナ正面突破と同時という戦機の貴重さは類を見ないので、万が一成功した場合に得られるものの大きさを考えるとソ連軍の後継者らしい柔軟性のない命令を下す理由も理解できる。ウクライナ軍砲兵が8年間のドンバス紛争で村や集落を砲撃して経験を積んできた、ドローンと連携した観測砲撃の練度の高さも改めて世界中に示された。我々がSNSで目にするドローン撮影の砲撃動画の大半はドローンによる攻撃ではなく、遠く離れた榴弾砲からの砲撃の弾着観測のついでに撮られたものである。緒戦ではSNS上ではトルコ製TB-2などのドローンだけで機甲部隊を殲滅できそうな雰囲気だったが、ドローン単体の戦果はたかが知れており、その役割はあくまでも偵察と弾着観測である。そもそもウクライナ軍ドローンの撃墜されるまでの平均寿命は7日間である。陸戦を制するのが榴弾砲とロケット砲であるのはスターリンが「砲兵の歌」を作ったあたりから変わっていない。この頃はまだ西側の「性能の高い」榴弾砲は前線に届いておらず、ウクライナ軍砲兵の打撃力の強さはあくまでもソ連軍としての系譜に由来する。ロシアでもウクライナでもソ連が遺した榴弾砲と砲弾が倉庫の中で山積されており、それらは非現実的な計画経済の失敗例として倉庫の中で朽ちる予定だったが、まさか21世紀になって思いがけず陽の目を見ることになり、同時期に量産されて同じソ連の中の両地域にそれぞれ配属された仲間同士が戦場で互いを破壊する形で生涯を終えることになったのである。

ドネツ川渡河作戦にばかりスポットが当たり同時期のポパスナ突破を誰も取り上げなかったので、その後なぜ戦局が急転したのか、にわかには理解しづらいだろう。特にドネツ川のウクライナ軍砲兵の働きを西側の技術と勘違いした人などからすると、これでロシア軍の旧式の榴弾砲など相手にもならないことが立証されたようなものであった。ところが現実にはロシア軍砲兵が10倍とも言われる火力でウクライナ軍砲兵を圧倒し続けている。何度も「戦局を変えられる」と言われてきた西側の先進的な兵器とやらはどこに行ったのか。米軍のM777が真っ先に前線に届けられたが、これは軽くてヘリが吊るして移動できるのが長所であり、制空権がないウクライナではただの平凡な牽引式の榴弾砲である。その運用についてウクライナ軍自身が「M777は敵の攻撃に晒されやすく、一個小隊6門で出撃するとだいたい2門は砲戦で損傷して帰投後に後送して修理に出す必要があった。これが毎日のように起きている」と述べている。NATO規格の砲弾の輸送から修理まで全て独自のロジスティクスを作らないといけない分、平凡な小隊よりも使いづらい。隣のソ連式の砲兵小隊の砲弾が切れても融通できないし、M777小隊の砲兵が負傷した場合、隣の小隊から応援が来ても操作できない。それでもM777はまとまった数を前線で運用できただけましであり、それ以外の西側諸国から少数ずつ送られてくる様々な榴弾砲はもはや前線に送るだけ混乱を招くだけである。フランス製カエサル自走砲がウクライナ軍によって敵に売却されたとの噂も話題になった。空戦や海戦と異なり陸戦では一種類の新兵器が戦局を変えることはあまりないのである。戦車不要論と共に一時期もてはやされたジャベリンなどはウクライナ側も欲しいと言わなくなった。反撃で死ぬのを覚悟して敵の戦車に近付いてくれるような歩兵がもう残っていないからである。ひと悶着の末にようやく供与が決まったロケット砲M142(HIMARS)は今のところ目ぼしい戦果がなく、70キロの長大な射程をメリトポリの空港への砲撃で発揮しただけである。最も役に立てそうなのは東側仲間のポーランドが送った200両のT-72だろう。
砲兵火力の劣勢はウクライナ軍の士気に厳しい試練を与える。反撃するとすぐに数倍する火力に報復されるので、トーチカがあればまだいい方で、歩兵は塹壕に籠りながら祈り続けるしかない。ウクライナ当局によると前線では毎日100人のウクライナ軍兵士が戦死し、それに5倍する負傷者が出ている。後送が間に合わない大量の負傷者の存在も士気に打撃を与える。ロシアと違って総動員体制が機能しているため熟練兵が消耗すると次々と新兵が補充されてくるが、その置き換えによっても士気と練度は低下する。逆に熟練兵の方はもはや前線に出たがらず、到着したばかりの新兵を容赦なく最前線の塹壕に放り込んだ。それが部隊ごと行われることもあった。このあたりになると相次ぐ補充で両軍ともに旅団や師団の編成が意味をなさなくなっており、無数の大隊同士の混戦になった。一ヶ所で捕虜を捕まえるといくつもの旅団の番号が出て来る有様である。
ポパスナの突破口から兵力を集中してウクライナ軍の補給線を抑えられればセベロドネツク、リシチャンスクは戦わずして無力化されるが、ロシア軍はセベロドネツク自体の攻囲にこだわったため中途半端に兵力を分散させた。セベロドネツクの政治的な意義は両軍にとってあまりにも大きく、特にロシア軍が後回しにするとルガンスク軍との間の確執の種になりかねない(WW2のパリと同様)。その後一ヶ月にわたって戦線が膠着したのはウクライナ軍の方がポパスナ正面に多くの援軍を送り込めたからである。ポパスナ正面のT1302を巡る戦闘は苛烈を極め、ドネツク軍第1軍団を指揮していたクトゥーゾフ少将も砲撃で戦死した。ポパスナ突破口が拡大されたらセベロドネツクを死守しても埒があかないので、第14, 24機械化歩兵旅団、第17戦車旅団、第79, 80空挺旅団といった歴戦の主力部隊はリシチャンスクから補給線の両翼にかけて配置され、セベロドネツク自体の防衛は動員兵からなる第111, 115などの国土防衛旅団に任せられるようになった。緒戦でアントノフ・ホストメリ空港を守り抜きキエフをロシア空挺軍から救った国家防衛隊第4特務旅団もセベロドネツクに投入された。市街戦ではどのみち敵が火力の優勢を活かせず戦力差が圧縮されるので動員兵やパラミリに任せる采配は合理的ではあったが、一方で市街戦も過酷な戦闘であり、守衛側にも士気と練度を要求する。
5月末になるとセベロドネツク市街地に放り込まれた第115国土防衛旅団が総崩れになり、投降者が続出した。セベロドネツクのロシア軍はそれに釣られる形で突出して市街地の大半を支配したが、一旦リシチャンスクまで退却したウクライナ軍は奪還作戦を試みた。元々セベロドネツクはリシチャンスクとの間にドネツ川が流れているため守りやすい地形ではあり、WW2のスターリングラード攻防戦と同じように防衛側は傷付いた部隊を川の向こう側で悠々と再編し、再編が終わったら再び渡河して市街地に送り込むことができる。更に高地に位置するリシチャンスクからセベロドネツクに砲撃を送り込むこともできる。ロシア軍はまさか反撃に遭うとは思っていなかったのか、元より反撃に遭ったら退却して砲火に反撃させるのが損害を嫌がる優勢側の定石だったのか、とにかく素早く退却した。外人傭兵部隊も反撃に投入されたが、これは「ウクライナ軍より強い精鋭部隊」として投入されたというより、弾除けとして新兵と同じように使われたように見え、傭兵の方もリシチャンスクからの火力支援から離れて戦果を拡大しに行くほど士気は高くなかったに違いない。それに対してロシア軍はドネツ川に架かる橋を破壊した上で市街地の掃討を始め、6月末に至りウクライナ軍はセベロドネツクからの退却を余儀なくされた。セベロドネツクからリシチャンスクへの退却も渡河であり、ゴムボートで間に合う程度の人員と装備しか撤収できなかった。
セベロドネツクはそれでも長期間にわたって善戦したと言える。リシチャンスクには更に多くの主力旅団と砲兵陣地が詰めており、さすがにセベロドネツクより長く持ちこたえることができるかと思われたが、セベロドネツク陥落のわずか1週間後にウクライナ軍はリシチャンスクを放棄した。セベロドネツクが陥落した今、リシチャンスクがルガンスク州の最後の拠点なので政治的には重要であり、簡単に放棄できるものなら何も今を選ばなくてもポパスナ陥落直後なら重装備と共に撤退できたので、それでもウクライナ軍がリシチャンスクの素早い放棄を決断したのは、自軍の士気と練度がもはや市街戦に耐えられるものではなくなったと判断したことを示唆する。少数の兵力を市街地に残して時間を稼いで味方の撤退を援護する余裕さえなかった。両市の攻防でのウクライナ軍の死傷者数はショイグ国防相のプーチンへの報告では5400人ほどということになっているが、これは上限であり実際はもっとましと思われる。しかし重装備の遺棄は緒戦のロシア軍の比ではなかった。残存部隊はシヴェルシクやバクムートに向けて退却した。自動車を乗れた兵士は幸運であり、多くの兵士は徒歩で敗走した。ロシア軍の包囲網は当初のイメージと比べて遥かに小さいものだったが、ウクライナ軍が包囲網の中に次々と援軍を送り込んだせいで結局かなりの部隊を喪失することになった。
ここから戦場はルガンスク州からドネツク州に移行する。ウクライナ軍はドネツク州にまだ広大な支配領域を保持しているが、戦局がここまで来るとウクライナ軍の立場に立って劣勢を跳ね返す決め手が思い付かないのが正直なところである。元々劣勢でもこれまで互角の戦いを進めて来られたのが徹底した市街戦のおかげだとすれば、士気と練度の制約で市街戦が使えなくなるといよいよ劣勢が固定されてしまう。NATO諸国からの兵器援助はいずれも決定打になり得なかった。新たに動員した予備兵力に西側の装備を与え、西部での数ヶ月の訓練を経て反撃用の部隊を編成する予定だったと思われるが、予備兵力は次々とドンバス前線に投入されたためいつまで経っても編成が進まないのが現実である。予備兵力がないなら前線で死守を続けても希望が見えない。それでも持久戦を決め込めば相当長い間にわたって戦闘を継続することはできるが、その場合も西側にアピールするための反撃作戦で貴重な兵力を摩耗すべきではない。我々はへルソン大反撃作戦(n回)、イジウム大反撃作戦、セベロドネツク大反撃作戦をそれぞれ見てきたがどれも龍頭蛇尾になった。ロシア軍が先に撤退したことによって「奪還」されたハリコフ近郊も、ウクライナ軍がロシア本土に脅威を与え始めるとすぐにロシア軍が戻ってきて再び緩衝地帯を作った。ロシア軍も明らかに相手が市街地やトーチカ群から出てきて反撃作戦に出てくれた方が損害を与えやすいと考えている。小部隊で無数の拠点に散らばって逐次抵抗しながら、圧倒的な砲火に晒されたり包囲されそうになると撤収する。見映えは悪いがこれを繰り返すしかないのである。負傷兵は時間が経てば復帰できるが、途中まで善戦と評されるような戦い方をしたところで最後に部隊ごと包囲されて投降したら戦争終結まで一気に数千人を喪失してしまうので兵力バランスが敵に傾く。NATOからの上限のない軍事支援か直接参戦がない限り、好む好まざるにかかわらず、ドネツク、ルガンスク両州の喪失が落としどころになりつつあるように見える。
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