Bloomberg Coco Bond Index
 前回の記事で見てきたようにUBSによるクレディ・スイス(CS)の救済買収に伴って無価値になったCS AT1債は全世界の投資家に損失をばら撒いたが、当然その一部は日本の富裕層や法人を直撃している。時間が経つにつれてCS AT1債投資で損失を出した人々の群像が浮かび上がってきた。青山学院大学駅伝部の原監督がやられたのを早々と公表していた。コーエーテクモ・ホールディングスもCS AT1債で41億円ほどの損失を出しており、投資巧者で知られる襟川会長は決算説明会で「売却の指示を出していたにもかかわらず実行が間に合わず全額損失になった」と述べ、本取引は「事故」であり、自身の投資経歴の中で「最大の汚点」とまで表現した。それだけスイス当局の暴挙は合理的に予想を当てることが難しく、詳しい人ほど損させられたということである。

 金融庁の統計によると日本国内で販売されたCS AT1債の総額は1400億円程度であり、販売先は富裕層や法人が中心であった。販売会社の中で単独で過半数を占めるのは三菱UFJモルガン・スタンレー証券であり、1社で950億円も売っている。保有していたのは約1,500口座とのことなので、単純平均で1口座あたり6,300万円とけっこうな額となる。そもそも世界中のCS AT1債残高は2.2兆円とのことなので、その実に4%を三菱UFJ証券の顧客が保有していたことになる。他の証券会社ではみずほ証券が40億円強、大和証券とSMBC日興証券が数億円ずつ、野村證券はゼロとなっており、やはり三菱UFJ証券が突出している。

メリルリンチ・プライベート・バンクの遺産

Coco Bond pyramid
 三菱UFJフィナンシャルグループはかつてメリルリンチの日本リテール部門を買収しており、それが「三菱UFJメリルリンチPB証券」という名でグループ傘下に入った後、「三菱UFJモルガンスタンレーPB証券」への社名変更を経て三菱UFJモルガンスタンレー証券に合併し、今は三菱UFJモルガンスタンレー証券のプライベート・バンキング部門(グループ)になっている。その経緯から三菱UFJ証券の富裕層向けプライベート・バンキング事業の規模は他の四大証券と比較にならない。更に他の外資系金融グループの日本PB部門と比較しても、メリルリンチPBは口座開設における資産ハードルの低さ(他の外資系PBが3億円、5億円となっている中で1億円)もあってとりわけ規模が大きかった。そのメリルリンチPBの主力商品の一つがミドルリスク・ミドルリターンの高利回り債券であったことは想像に難くない。営業マンもAT1債やCoco債の特有のリスクの説明など造作ないだろう。これはOBによる解説記事を見ても明らかである。顧客の大半も長年劣後債投資の経験を積んできたと思われ、被弾した投資家の人数は多かったとしても、よく分からないまま退職金や、資産の大半を単一発行体のAT1債に突っ込んだ個人投資家はさすがにかなり少数と思われる。実際コエテクは言うまでもなく、原監督のケースでもAT1債は分散されたポートフォリオの一部でしかなかったし、「そもそもスイス政府にも問題があると思うよ。株式や会社は残して、債権を放棄させるという政策を進めているわけだよね。そういった商品って世の中にたくさんあるわけだから、金融不安にもなるよね」と一連の騒動を実に正しく解説できている。これでだけで十分な知識があったことが分かる。原監督の言う通り、根本的に悪いのはあくまでもスイス当局である。

 投資の勧誘に際しては顧客の知識、経験、財産の状況、投資目的やリスク管理判断能力等に応じた取引内容や取引条件に留意し、顧客属性等に則した適正な投資勧誘の履行を確保する必要がある。これは大前提である。しかし、富裕層の個人投資家にAT1債を販売したこと自体が問題だったかというと、そうとは全く思わない。前回の記事でも述べたようにAT1債の役割は金融機関のテールリスクをむしろ積極的に年金基金と個人投資家に移転することであり、銀行が保有(ダブルギアリング)していたら損失吸収機能でシステミックリスクの拡散を防ぐという設計理念を果たせなくなる。現にシンガポールのアジアン富裕層なども大々的に保有しており、富裕層の資産運用にAT1債を提案する方針はグローバルで見ても脇道に逸れたわけでは決してない。むしろ王道である。機関投資家が基本的に手を出さない仕組み債と異なり、AT1債は個人投資家も機関投資家も概ね平等にトレードしている。もちろんスイス系金融機関発行のAT1債に限っては「CET1トリガーリスク」のみではリスクの説明としては結果的には不十分であったが、スイス当局の暴挙を今ひとつ想定できなかったのは大半の機関投資家も同様である。「CET1比率が14%を超えるG-SIBs金融機関のAT1債を顧客に推奨した」方向性に問題があったとは思われない。今回はただの事故、それも天災のようなものである。こういった商品に手を出すのはギャンブルのようなもの。FXのように常に状況を監視できる人以外は手を出すべきではありません。原監督はきっと人が良いので証券マンに乗せられて買ってしまったのでしょう」などという的外れな後出し批判もあったが、いったい毎日何を監視しろと言うのか?

AT1債指数のパフォーマンスの居場所

Cocos and US Corp Bond
 AT1債の十分に分散されたポートフォリオのパフォーマンスはAT1債指数に近付く。米ドル建てのAT1債指数を投資適格社債(USIG)指数のパフォーマンスと5年分比べると、リスクが大きい分パンデミック・クライシスの下げが深かった代わりに、普段から厚いリスクプレミアム(高い利回り)が蓄積された結果、じわじわとアウトパフォームしてきた。今回の事件で予想外のリスクが顕在化して(CS部分の全損と他の銘柄の連れ安で)指数全体が大幅に値を下げた後も、5年単位ではせいぜいUSIG並みのリターンまで落ち込んだ程度である。たとえスイス政府の超法規的な措置に狙い撃ちされた後でもAT1債は投資不可能な資産クラスになったわけではない。十分に分散されたAT1債ポートフォリオなら、たとえ個別銘柄が無価値になっても他の銘柄からのインカム収入がそれを補う。AT1債ショックの最中に書かれた前回の記事でも「AT1債ショックの第2波はネガティブ・コンベクシティを解放する儀式のようなものである。従ってECBによる火消し後のラリーは短慮だったとは恐らく言えるものの、スプレッド・デュレーションが伸びた後になおも非理性的な売りが続くようなら、欧州銀AT1債は十分なキャリーを提供するアセットクラスとして買い場を迎える」としていたが、やはりパンデミック・クライシス並みの烈しいテールイベントが再発しない限り、AT1債指数は再びじわじわと投資適格社債をアウトパフォームするだろう。

個人向け社債批判

Rakuten Bond
 富裕層に販売される海外債券と比べ物にならないほどトラップが多いのはむしろ国内企業が個人投資家向けに発行する社債である。例えば今年2月に楽天グループは個人投資家向けに「楽天モバイル債」の2年債を3.3%で発行した。一方で今年1月に海外の機関投資家向けには米ドル建ての2年債を11.76%で発行している。どちらもデフォルトリスクと返済順位は同じである。しかし米ドルと円とで短期金利差が4~5%あることを割り引いても米ドル建て楽天債は7%近く残っており、機関投資家なら日本円しか持っていなくても楽天モバイル債の2倍の利回りを享受できる。もちろん最終的には楽天グループが2年後までに倒産しなければどちらの投資家もプラス収益で終われるが、このように日本の個人向け社債界隈では一物二価が横行している。これが成り立っているのは社債投資のリターンがデジタルになっているためであり、つまりデフォルトしなければ投資利回りが当初のインプライド・デフォルト確率――事後的には実現しなかったので意味がない――対比や他の投資家対比で多少低くても気にならないし、デフォルトした場合は逆に元本の損失が大きすぎてエントリー時点の多少の割安・割高はどうでもよくなる、という行動経済学の範疇である。しかし長期的には何度も割高な個人向け社債への投資を繰り返していると、取っているリスクとインカムゲインのバランスは確実に悪くなるだろう。

社債こそ分散投資が必須

 デフォルトリスクがある債券は経済的にもトラップ回避のためにも分散投資が大事であり、他の銘柄群対比で大して利回りがよいわけでもない個別銘柄のテールイベントで資産を大きく毀損させるのはかなりアホらしい。株式なら指数よりも倍になるかもしれない銘柄に集中投資したい時も多々あるだろうが、社債は特定の銘柄に集中投資したところでアップサイドは限定的であり、ダウンサイドの損失可能額が広がっていくだけである。社債投資のリターンの根源は一部の銘柄がデフォルト(投資適格なら格下げで強制売却)しても他の銘柄からの厚いキャリー収入で補えることであり、PBの顧客もそれを享受できている人が多いと思われる一方、個人向け社債の単一銘柄投資は日本企業の絶対的なデフォルト率の低さにかこつけたギャンブルにすぎないのである。

 社債を何十銘柄もバスケットで買えるほどの資金力がなければ多数の銘柄が組み込まれた社債投資信託への投資の方が明らかに合理的であるが、それでも個人向け社債の方が爆売れしているのが現実であり、それは様々な要因があるが、最も大きいと考えられるのは債券投信の大半が債券指数に連動しており満期がないせいである。債券投資というのは満期があってそこで(ほぼ)確実に返ってきて利回りも概ね決まっている(Fixed Income)から投資したくなるのであって、変にファンドの中で償還再投資をやられると、保有銘柄の平均利回りは何となく表示されているものの、どの投資期間で区切ってもリターンは「金利動向次第」であり、「(ほぼ)確実に得られるインカムゲイン」というのは分からない。となるとキャピタルゲイン(値動き)が大事になってくるが、債券指数が何で動いているのかを完全に理解できる人は一握りしかいない。筆者もLQDやTLTの値動きを雰囲気でしか分からない。つまり運用会社は社債という資産クラスをわざわざ「株式ほどのハイリターンを挙げるわけでもない、謎の動きをするミドルリスクの塊」に仕立て、誰も見ていない謎の動きの指数に連動させるために手間暇をかけているのである。再投資をした方が複利の威力とやらを享受できると言われても、倍になるかもしれない株価と違って債券のアップサイドは「金利は極端に深いマイナスにはならないし、クレジットスプレッドも0にはならない」ことが分かっているので、低金利時代に恩着せがましく再投資されても迷惑でしかない。個別銘柄の投資家なら「既存の債券がたくさん償還されて現金が余っているが、利回りが低いのでしばらく営業マンが持ってきた案件への投資は見送る」という判断ができるが、社債ファンドの投資家は低利回り域での漫然とした複利投資を避けるためには高値圏で手動で売却(解約)するしかない。やはり債券投資は償還があってはじめて債券投資らしく見えるのである。

光は極東から

 最後に明るいニュース。CSショック後にAT1債発行市場に真っ先に復帰したG-SIBsは三井住友フィナンシャル・グループであったこれは本邦のAT1債がスイスは言うまでもなく他国のAT1よりも安全性が高いので必然である。生保の運用担当者などは「ボーナスのようなもので買わない選択肢はない」とまで新聞記者に極論を披露している前回の記事では「本邦では社債の契約によってベイルインの発動条件が明文化されており(Contractual Bail-in)、行政の裁量で発動される欧州(Statutory Bail-in)とは異なるためCSのように当局によって恣意的にAT1債が毀損させられることはあり得ない。具体的な発動条件は預金保険法第102条の第二号措置(破綻または債務超過時の公的資金注入・預金保護)、第三号措置(国有化)と定められており、第一号措置(過小資本時の資本増強、りそな銀行がかつて適用)ではベイルインが発動されない。本邦において銀行危機救済のための税金投入への拒絶反応が欧州より小さいため、資本不足が見えた段階で公的資金が投入されるだろう。邦銀AT1はCS AT1と異なるだけでなく、そもそも毀損するケース自体があり得るのかという次元である。従って邦銀まで規制資本の調達コストが大幅に上昇するとは思われない。コールについても邦銀は欧州銀と違って株主の目よりも仁義を重視するだろう」としていたが、この議論を全国銀行協会の会長が「一般的には、日本の金融機関が発行するAT1債は、公的支援が行われることによって元本が毀損されるという特約はないと認識している」と再確認している。

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この記事は投資行動を推奨するものではありません。