米国の金融政策については気だるい時間帯が続いている。インフレーションの減速(disinflationと表記される。慢性的なデフレーションとはまた別の意味の、あくまでも減速である)は順調に進んでいる。その結果Fedの仕事はほとんどなくなっている。これはFOMC警戒もその剥落も顕著でなくなってきたことと整合的である。利上げのペースが「1回あたり25bp」を割り込んだ時点で、特段の理由もなく据置き(Pause)となるFOMC会合が出るのは当たり前であり、その存在を深読みすべきではないし、単月の会合を捕まえて利上げすべきではなかったか?などと議論するのも的外れである。久々の据置きとなった6月FOMCも25bp利上げを再開した7月FOMCもほとんど見るべきところがなかった。
強いて言えば記者会見のやり取りからFedはFCIが緩んでもそれだけを理由に引締めを強化することはなさそう、つまり「株が上がるとFCIが緩むためパウエルが怒る」という2022年の株式の上値を抑えてきた迷信がやはり滅亡、死亡したままであることが確認されたくらいである。CPIからCPI家賃を取り除くために作られた新規賃料指数に続き、Fedは「より引き締まったように見える」新しいFCIを開発している。これはSVBの後始末の記事でも取り上げたFCIの使えなさへの批判に応えたものであるが、新しい指数を作るという行為は当然、古い指数では都合が悪いため古い指数を無視したいというモチベーションから来ている。新しい不確実性を付加せず、今の5%台の高金利をなるべく静かに長く続けたい気持ちが漏れ出ていると言えるだろう。
一方、QE最中のテーパリングの議論の時から本ブログが述べてきたように、市場が先行して織り込んだ利上げパスに対してよもやハト的なサプライズをデリバーする意味がないという原則は今でも変わっていない。2023年の残りの期間の金融政策変更、具体的には利上げ回数については、とにかく「今回は終わりではない」という演出をダラダラと続けており、不要な波乱を招きそうなタカ的なサプライズも慎重に避けている。今後も金利市場が直前に織り込んだ行動がそのまま実現すると思われ、それは債券のインプライドVol(MOVE)のある程度の低下を正当化する。9月FOMCが利上げとなるか据置きとなるかの憶測も始まっているが、パウエル議長が記者会見でも触れたようにそれまで十分な数の指標が控えているので無意味な行動である。これまでHigher for Longerを引締めツールとしてフォワードで織り込ませようとする試みは市場参加者に度々無視されてきたが、実際にHigher for Longerを粛々と続ける分には当然逆らいようがないし、市場参加者はマクロ経済をちゃんと見ているのでFedのメッセージに先駆けて引締め加速を織り込むこともある。
供給制約由来のインフレは一時的
この無風さは2022年年末時点ではほとんどの市場参加者にとって予想できなかった。インフレと景気後退の双方向の不確実性を抱えていたはずの2023年はすっかり2021年に近い低ボラティリティ・レジームに復帰している。運命の分かれ道となったのはどこか。予想不可能だった戦争の勃発もあってインフレーションが予想外に強かったのは事実だが、株のラリーに取り残されて嘲笑の的にならないためには「インフレーションは一時的(Transitory)」であるとの信念がどうしても必要だったのである。供給制約由来のインフレーションは一時的(Transitory)。これが2023年の相場について語る全ての議論の出発点でなければならないのである。大事なのでもう一度復唱する。供給制約由来のインフレーションは一時的(Transitory)である。Fedがわざわざ公表を始めたグローバル・サプライチェーン・ストレス指数で供給制約が解消しつつあったことは何ヶ月も前から全世界が知っていることだ。
そう、全世界が知っているにもかかわらず、「インフレは粘着的であり、リセッションになってもFedは引締めを緩めない」という方向に一旦思考が行ってしまうとその後の展開で致命傷を受けたことだろう。金利で2023年中の利下げがない方向にポジションを取っていればSVBショックでペナルティ・ボックス入り、株なら今後5年くらい積立て投資家に嘲笑されるのを覚悟すべきだ。この戻りも取れないようなら一体何のために株式投資をやっているというのか?一体何のために仕事とも関係が薄いマクロ経済の勉強に時間を費やす必要があったのか?
サービス業の支払い価格も製造業のそれに少し遅れて低下し始めた。サービス業のコストのうち賃金が占めるウェイトはもっと大きいため財ほど支払い価格低下の波及が速くないものの、今後景気が減速する局面が来れば財デフレの素早い値下げの方が目立つだろう。
雇用コスト指数(ECI)もゆっくりとではあるが低下しつつある。米国の現役世代の労働参加率はパンデミック前の水準を超えてきた。移民の流入を制限して構造的な労働力不足を招いたタイトル42も5月に失効した。財と比べて極めて緩慢ながらも、構造的な労働力の供給制約に由来する賃金コスト増も減速しつつある。
CPIは予定通り3%に到達
肝心のCPIの数字は過去のインフレーションスワップ市場が予想したように3%割れには届かなかったが、それでも3%までは来ている。Fedが重視するPCEでもヘッドラインとコアでそれぞれ前年比3.0%、4.1%となっており、5%台まで上がってきた政策金利と比べると金融政策は明らかに経済に対して制限的なものになっている。3%を付けるところまで来るのは本ブログが2022年12月の記事で既に確信しており、「米国CPIやPCEが背負っているのは"単月の数値"などという軽いものではなく、来年のヘッドラインCPIが3%割れに向かうパスを見通せるかどうかである」と喝破している。一方ヘッドラインCPIが3%に近付いたのはコモディティ等の前年比効果による一時的なものにすぎないのも予定通りである。
2022年時点では「インフレは粘着的であり、リセッションになってもFedは引締めを緩めない」説が圧倒的だった。もし現時点まで2022年のような株安が続いているとすれば「既にヘッドラインCPI・PCEが3%なのでまだ引締めを続けるべきなのか?」という声が沸き上がっていたに違いない。本ブログなどはSVBショックの前から「2023年年末の利下げ織込みが残っているのはおかしいのではないかという主張に当たった時、まず相手に問うべきは"2023年後半にヘッドラインCPIが前年比2%台まで低下することを知っていたか?"である」などと散々煽り散らかしてきた。しかし、現にヘッドラインCPI・PCEが3%きっかりまで――2%台にはどうもいかないようだがそれでも近い――下がってきても、そもそもリセッションにも株安にもなっていないようではpivotを求める声が上がるはずがない。Fed pivot抜きに株高、それもGAFAM主導の分かりやすい株高が実現していたので大半の投資家にとってpivot自体はどうでもよくなったのである。結果的にリセッション懸念の剥落と共に金利が上がってきたのだが、それも裏を返せばデュレーションリスクがリセッションヘッジとして認識されていた証拠でもあり、「インフレは粘着的であり、リセッションになってもFedは引締めを緩めないのでデュレーションリスクはリセッションヘッジにならない」説が的外れであったからこそ、そのように動いている。今後は前年比効果が剥落するにつれてコアCPI・PCEを下に切っていたヘッドラインCPI・PCEは再びコアの水準に向かって収斂するだろう。
ディスインフレーションを好感する株式
コアPPIとコアCPIとではバスケットの中身も異なるので単純比較できないが、とにかく雰囲気としては、供給が回復してコストの伸びが鈍化する一方で需要側は堅調なので、企業にとっては理想的な運営環境になっている。1年前から述べているようにEPSは名目値であるので、元よりマイルドなインフレが最も好ましいことが分かっている。前回の記事で述べたように、供給制約が解消されたことでスタグフレーションだけはなくなったのである。企業の仕入れコストは低下しているが、それを商品の値下げに反映するかどうかは企業の自由である。仕入れコストが低下する中で更に値上げするほどでないにしても、需要が続いている限り、仕入れコストが下がったことだけを理由にわざわざ値下げする必要もない。これまでのコスト上昇で圧縮されていたマージンはコスト低下に伴い再び拡大に向かう。
企業のマージンが改善する代わりにインフレの数字そのものの低下は緩慢であり、この組合せは株式と債券のリターン格差を急速に拡大させ、株式のフォワード益回りを金利で割り引いたエクイティ・リスクプレミアムは急速にタイトニングした。金融危機後で見ると株式は明らかに割高域に入っているが、金融危機前のインフレ・レジームと比べるとそうでもない。インフレ・レジームでは名目EPSの成長によるインフレヘッジ機能がある株式が債券よりも人気になるのは当たり前なのである。
ディスインフレーションを好感しない長期金利
というわけでディスインフレーションを債券ポジションで表現するのもまた間違っていた。(3月の中小銀行危機のような金融システムを揺るがすようなイベントがやって来ない限り)Fedが金融政策をレジームチェンジさせるケースは「コアPCEが極めて近い将来に2%近辺で安定する見通しが立った」か「コアPCEが2%近辺に近づく見通しが立たなくなった」のどちらかである。緩やかなディスインフレーションが確認されただけではFedを上下どちらにも動かすことができない。毎月のPPIは顕著にダウンサイド・サプライズが続いており、CPI・PCEも遥かに小幅ながらも同様の傾向となっている。これが続く限り物価指標発表のたびに後者のリスクは剥落するため――6月CPIのリアクションのように――長期金利が4%以上で発散しそうな流れは否定されてきたものの、次のリセッショナリーなイベントを実際に観測できるまで3.5%割れは極めて遠い。前回の記事で年前半の米長期金利について「中小銀行危機などでリセッション懸念が盛り上がるたびに10年金利が3%台前半に低下し、懸念が剥落すると3%台後半に上昇してきた」とまとめてきたが、リセッション懸念が剥落すると3%前半は当然遠くなるのである。従って順調なディスインフレーションはリセッション懸念の剥落を通してむしろ長期金利上昇要因として働いた。これは「ノンリセッション」がキーワードになった2023年2月と同様の構図である。もちろんその直後に3月の中小銀行危機が起きたように、金利低下イベントがいつ来るか予想できるものではない。従って投資家がキャッシュよりも「タイミングを予想できない」クラッシュに備えて漫然と長期債を選好するのは必ずしも間違った行動ではない。短期債にやや劣るもの長期債の利回りは依然十分高い。しかしタイミングが分からないため、少しの利回り差(キャリー)も気になるタイプの投資家にとって積極的にデュレーションを伸ばす理由は乏しい。金利カーブが大きくインバートしているせいで、何も起きないと長期債は短期債や調達金利対比でネガティブキャリーが続くからである。その結果、金利カーブのインバート幅には限界があり、2y-10yでマイナス100bpが概ねその下限になっている。これはFedが巧妙にオーバータイトニングを避けてきたためであるとも言える。
デュレーションリスクを取り続けるのは株式のプット買いを延々と続けるようなものである。それはまさに「パウエル・プット」と呼ばれていたものであり、「インフレがスティッキーなのでパウエル・プットに期待してはならない」などと昨年には言われていたが、3月に彼らが吹っ飛んだことからも分かるように現実にはパウエル・プットは健在であり、その上で投資家はパウエル・プットなどもはや要らないと判断しているのである。
供給制約の解消と企業のマージン拡大に伴い、引締めがリセッションを招く可能性そのものも格段に低下した。もし需要サイドが急減速するような場面があれば企業は簡単に値下げして売上げ個数を守れる体制になったためである。従って「インフレはスティッキーなのでリセッションになってもFedは引締めを緩めない」場面がやってくる可能性は、元々低かったのが更に低下した。もちろん我々が予想できない引締め効果のタイムラグやFedの凡ミスでランディングに失敗する可能性はありそれを無視すべきではない。しかしもはや「詰み」ではないのである。供給制約の解消によるリセッション可能性の剥落をあえて雑にGDPで表すと、同じ6%の名目GDP成長でも「6.5%のインフレに-0.5%の実質成長」の組合せよりも、「4%のインフレに2%の実質成長」の組合せで実現する方が蓋然性が高くなったということであり、名目GDP成長――非常に高い――がこれから減速する場合も、実質成長を圧迫されるというよりはインフレの減速を通して行われやすいだろう。
前回の記事でも「長期金利が利上げにあまり動じず、ここまで金利カーブがインバートしているのは、直近の政策金利が明らかに異常値であり、また物価上昇も一過性(transitory)であるため、リセッションがあろうとなかろうと(2023年中にしろ2024年以降にしろ)再利下げに転ずるのが確実だからである。換言すればこれほどまでに将来、それもごく近い将来の物価指数が自然体で低下する確信を持てる場面は過去に存在しなかったのである」としていたが、本ブログが述べてきた一連の議論と同じものを2022年から孤独な強気だったEd Yardeni氏は「至福シナリオ(ニルヴァーナ)」と名付けた。GSも同様の議論をしている。またしても"This time is different"である。GSはタームプレミアムがネガティブであると論じているがそれは明らかにFedのQEのおかげであり、本ブログ風に表現すると「潤沢準備レジーム(Ample reserve regime)下で金利のインバートがリセッションをそれらしく預言したことはただ一度もないのである」ということになる。
ニルヴァーナか黄粱の夢か
ニルヴァーナには死角はないのか。インフレについて市場参加者及びFedの予想が度々外れたため多くの市場参加者は一度インフレの減速を当てる行為を諦めてしまっており、あえて近視眼になることで安全を優先した。リセッションについても同じことが言えるのではないか。つまり米国の国内景気を象徴する小売売上高をはじめとする各種指標が実際に滑り始めるのをこの目で確認できるまで、多くの市場参加者は「これがこうでこうだから」と理屈からリセッションを預言するのを諦めたのではないか。しかも小売売上高もクレジットカード利用額からカンニングできることが分かっている。これでは少なくともカード類の統計が滑り始めるまでフライングしてリセッションを当てに行く行為には意義がない。
これまでリセッションの預言に使われてきた金利カーブのインバートはリセッションを預言するものではなかった。経済指標の中で最も先行性があるはずの製造業PMI・ISMも使えなかった。企業に決算コールでPMI・ISMにどう回答したのかの開示を義務付けたいほどPMI・ISMは口嫌体正直であり、金利カーブのインバートやPMI・ISMが使えないことに気づけずリセッション予想の撤回が遅れたエコノミストも猛省しなければならない。本ブログの立場はというと、金利カーブのインバートをリセッションと結びつける行為を執拗に罵倒し、リセッションはあくまでも実際の経済指標で判断しなければならないと主張してきた。その立場には今でも満足している。
もっとも、「今はリセッションを預言せず思考停止した方がよい」のと本当にノン・リセッションが続くのを信じるのはまた別物である。過剰貯蓄は時間の経過と共にゆっくりではあるが着実に減りつつある。秋からは返済免除が最高裁で否定された学生ローンの返済が再開する。もちろんそれらがいつテーマになるかは予想できない。そもそも、そのような長期ビューは当てたところで直前に駆け込み乗車する人と比べて得る物はなく、一方で後になってもし徹底的に何かを間違えていたのが判明する時には既に致命傷を受けているため、「いつかは」みたいな話には価値がない。本ブログも「長期的に見れば4%を上回る長期金利は麒麟並みに珍しい」としてきたため、その後4%載せを繰り返すたびに恥をかいている。しかし、もし小売売上高が実際に滑り始め、マイルドインフレ・レジームも短命で終わるという判断になった場合、株式と債券のリターン格差の逆転は素早いものになるのではないか。少なくとも株式にとっては今更「金融引締めの終わりが見える」という「バッドニュースはグッドニュース」という解釈にはなりづらいだろう。
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この記事は投資行動を推奨するものではありません。