Bloomberg 10y JGB yield after BOJ policy release 
 日本銀行は7/28の金融政策決定会合で2018年から続けてきたYCC(イールドカーブ・コントロール)政策をあっさりと「柔軟化」した。本ブログとしては植田総裁の就任時点から一貫して「YCCの余命は長くない」「7月会合に限らず、全ての会合でYCC修正がライブであるとの従前のビューはまだ維持している。レビュー期間が1年〜1年半だからと言って期間中に金融政策を変えないとは誰も言っていない」と数ヶ月以内のYCCの再修正や撤廃を唱え続けてきた。更に「3月会合ではたとえ政策修正があったとしても海外の投機筋を儲けさせないせこい戦術とのパッケージになる」「4月会合ではもとより劇的な政策変更を打ち出すのは難しい」「±0.75%幅への修正だけはない」と意味もなく細かい決め付けをしたところまでが完璧に実現した。

 この政策修正は十分なコミュニケーションを経て実行に移されたものであり、全くサプライズではなかった。にもかかわらず事前にYCCの再修正を見込んで日本債空売りを仕掛ける投機筋が大挙して群がって来ることもなく、撤退戦を見事に成功させた形となる。全てが完璧であった。本ブログがYCC柔軟化を歓迎するのは長期金利に上がってほしいからではない。海外の投機筋からYCCをアタックされ一時期誰から見ても詰んでいた日銀が、彼らに巨額の利益を稼がせずに済んだことが決定したためである。ずっとメディアでYCCにチャレンジしてきたRBCブルーベイなどは予想が当たったと喜びの声を上げたが、ポジションが大きくないロングオンリーであることが分かっているこういうファンドの稼ぎは誤差である。
事前のリーク合戦
Bloomberg JGB YCC
BOJ JGB market function
 一方、本ブログがYCC修正を前提として語り出してからも思いのほか観測記事が飛び交った。会合の一週間ほど前にBloombergロイターがそれぞれ「政策維持の可能性が高い」との記事を発信しており、7月に入って進みかけたYCC修正警戒はバックファイアーした。観測記事の理由はまたしても「イールドカーブが歪んでおらず、債券市場の機能に支障が生じていない」と本ブログが批判してきた理論だった。本来ならば前回の記事で取り上げた内田副総裁の記事の意義を、何処の馬の骨かも分からない「事情に詳しい複数の関係者」とやらのコメントが打ち消せるはずもないのだが、市場関係者があまりにもYCC修正を待ち焦がれているポジショニングになっていたためか、とにかくバックファイアーを受けて決定会合直前までYCCに改めてチャレンジする機運がついに盛り上がらなかった
Bloomberg 10y JGB yield before BOJ meeting
 恐らく無限買入れにチャレンジしてもらって「イールドカーブが歪んだ」のを理由にYCCをさっさと撤廃する予定だった日銀としては、市場参加者がまさか馬の骨に怯えてアタックして来ないのは意外だったに違いない。しかし日銀はよほど7月会合でYCCをやめたかったようだ。いよいよ無風のまま金融政策発表当日を迎えるように見えたところに、日本経済新聞が朝2時に渾身の直前リークを行った日経の記事のポイントは「長期金利の操作の上限は0.5%のまま据え置くものの、市場動向に応じて0.5%を一定程度超えることも容認する案」である。もともと2018年に導入されたYCCはこれほどまでに柔軟性を欠くものではなかった。すぐパッシブで硬直的な買支えや、金利カーブの歪みを連想させるほどの柔軟性のなさは、昨年4月に黒田日銀がYCCの持続可能性への憶測に対する逆切れのために「毎日無制限指値オペ」を導入して自身をトーチカに鎖で縛りつけた結果である。その歴史を踏まえると、「+0.5%超えの容認」とは+0.5%での無制限指値オペの廃止を指すに違いない。+0.5%という数字だけは残ったが、防衛はしないのだから、その数字はただの目途、かつてのマネタリーベース年80兆円目標と同様、形骸化された名目上の存在になるということだ。夜更かしした市場参加者は翌日の発表についてここまで具体的な想像を行った上で就寝したことだろう。

 このように予定されたイベントの当日未明にわざわざ観測記事を載せるからには、日経の編集部には絶対の自信があったと考えるべきだ。万が一それが間違いだったらかなり大掛かりな恥をかくことになる。なぜ未明になったかというと朝刊に載せるタイミングもそのあたりだからと言われているが、とにかくこれで完全に勝負が決まった。深夜にドル円と米金利、そしてS&P 500も小さくクラッシュした。翌朝になってもこの記事を信用しなかった人間がいたとすれば、それは二度とその人の発言を参考にしてはいけないレベルの非常識である。「日経は飛ばしが多いから」などと言って普段から新聞を読まないから恥をかくのである。

MPM本番

BOJ reference paper
Bloomberg USDJPY after BOJ announce
 ここまで事前情報が出尽くすと、7/28昼の政策発表はただの答え合わせになる。当然、日経記事が示唆した範囲内のものが出てきた。「毎日無制限指値オペ」が発動される水準が+0.5%から+1.0%にバックしたのが目玉だが、一方でプレリリースでは±0.5%という長期金利の変動幅を「目途」として残したため、日本語を素早く読めない市場参加者が「現状維持」と解釈して反射的に円安が進む椿事が発生した。それでは実質的に±1.0%のYCCなのに±0.5%という「目途」には何の意味があるのか。カラスを指して白いと言っている自覚 分かりづらさの自覚があったのか、日銀は更に日本語版英語版の参考資料をそれぞれ配布しており、中でも英語版の中では親切にも+0.5%という水準についてReference <not rigid limit>と付け加えている。普段から建前というものをよく理解している日本語勢には説明不要ということだろうか。
Bloomberg JGB futures positioning
 これでYCC政策は長期金利を0%近辺に誘導するものであるが、具体的な運用としては±0.5%の変動幅を目途としている、しかしその変動幅を実現するための買支えはあくまでも+1.0%で行う、といういよいよ分かりづらいパッケージとなった。本ブログが常々述べてきたように「たとえYCCが完全に撤廃されても」長期金利は+1.0%には一朝一夕に行けそうにないし、現に植田総裁は記者会見「長期金利が 1%まで上昇することは想定していませんが、念のための上限キャップとして 1%としたところでございます」と述べており、つまりこれはYCCの事実上の撤廃に他ならない。もちろん+0.5%から+1.0%まで真空地帯になるわけではない。日経の記事でも触れているように、日銀はYCCの事実上の撤廃に先立ち大手銀行にそのインパクトをヒアリングしている。その時の反応は当然「YCC撤廃には既に備えてあり金利が上昇したら民間でも買い需要がある、だから思い煩うことなくさっさと撤廃してくれ」というものであったに違いない。従って+1.0%に至る途中でまず民間銀行が国債を買い始めることになる。「日銀の政策変更を正しく予想できた」形になったベアファンドの投資家もここぞとばかりにベアファンドを解約するだろう。その民間銀行の買い需要の背後に督戦隊のように隠れながら日銀は+1.0%で形だけ待ち構えているということだ。更に+0.5~+1.0%の区間の中でもあまりにも急速に金利水準が変動したら(リスク管理の観点から)買える人も買えなくなるため、日銀が臨時オペを導入してスムージングを行うことになるが、どこでどうやって買支えを行うかについては日銀は明文化された規則に縛られない完全な自由をついに入手した。この構図はまさに、昨年から本ブログが推し続けたYCCからピュアQEへのシフトである。日銀はYCCの後処理についてこれまで様々な市場参加者から長らく懸念されてきたが、ついに債券市場に大きな混乱を招くこともなく完遂した形となる。植田総裁はこれまで4月会合で「1年以上のレビュー」を持ち出して海外の投機筋を煙に巻いたり、6月のECBフォーラムでも「金融政策が効果を発揮するのに25年かかるかもしれない」と英語ジョークを飛ばしたりと、悠長な印象を世間にばら撒いて回っていたが、今回の記者会見では一転して投機に対応する細かい戦術の説明を嬉々として行っているではないか。まさに「始めは処子の如く、ひとたび動けば脱兎の如し」である

政策修正の論理

Nikkei BOJ outlook
 YCCの事実上の撤廃をどうして7月会合に押し込まないといけなかったのか。記者会見では物価見通しの上振れリスクに対応したことになっている。現にYCC柔軟化と共に示された日銀の物価見通しは2023年分が大幅に上方修正されている。2023年度のインフレ率が1.8%に戻る予定だったのが物価目標の2%を飛び越えて2.5%まで引き上げられた。2023年度物価見通しの上方修正の必然性についても本ブログは5月の記事で既に取り上げており、物価見通しが上振れた時も政策金利ではいくらでも引締めを行わずに粘れるものの、それまでに「チャレンジに対して著しく脆弱なYCCを片付けておかないと邪魔である」としていた。記者会見での「上振れリスクが顕在化してから何か対応するということですと、後手に回ってすごい混乱してしまったり、あるいは副作用が大きくなる、あるいは最悪の場合に嫌々YCCを離脱するというようなリスクもゼロではないわけで、それに対して今回の措置は、前もってリスク対応を考えておくという措置」、或いは後日の内田副総裁講演「今後も上振れ方向の動きが続く場合、10 年物金利の上限を、0.5%で厳格に抑えようとすると、債券市場で歪みが生じたり、為替市場を含めて、他の市場の変動(ボラティリティ)に影響を与えたり、といった問題が生じるおそれがあります。昨年 12 月の見直し前後の状況を思い出してみても、そうした際に、最も強い手段である0.5%での"連続指値オペ"がもたらしうる副作用は、緩和効果とのバランスでみても、大きすぎると考えられます。そこで、あらかじめこの段階で、起こりうる副作用を和らげる措置を採ったということです。つまり、この先、物価の上振れなど、経済・物価の状況が変化した場合に、それでも混乱なく緩和を続けていくための"備え"としての工夫です」という表現がその議論にあたるだろう。その頃の世間の話題はまだ「1年以上のレビュー」でもちきりであった。

 もっとも2023年度1.8%→2.5%という思い切った物価見通し上方修正もまた予想外であった。これは明らかに2024年度の1.9%への下方修正とセットになっており、2024年1.9%という予想が残っている限り「2年連続の2%超え」とはならず、インフレ目標をまだ達成していないと言い張ることができる。2024年度も2%台になりそうと判明する頃にはマイナス金利も撤廃されざるを得ないため、今の軌道上を経済環境が動くならマイナス金利政策の余命もまた長くて1年程度ということになる。諸外国と違って日本ではガソリン価格に補助金でキャップを付けてきたので、コモディティ価格の前年比効果だけでCPIが自然と反落できる構造になっていない。ただし内田副総裁が既に釘を刺したように、マイナス金利撤廃時の利上げ幅は10bpにとどまるだろう

為替市場への影響

 政策変更のもう一つの背景は円安である。これまで日銀は金融政策が為替相場を意識していると見られるのを避けてきた。しかし今回の記者会見の最後「(YCCの)副作用の話の中で、金融市場のボラティリティをなるべく抑えるというところの中に、今回は為替市場のボラティリティも含めて考えてございます」という植田総裁のコメントを引き出した記者がいた。後に内田副総裁も上で引用した通り、同じ旨のコメントを述べている。本ブログが1年前から指摘してきたように、YCCは円安を加速させるものなので好ましくなかったということである
Bloomberg USDJPY after BOJ meeting
 しかし、金融政策がここまで専ら本ブログが予習してきた通りであったとすれば、一連の金融政策修正の為替への影響もまた予習通りになるのが当たり前である。YCCの事実上の撤廃を受けてドル円は一時売られたが、せいぜい140台割れまで下落した程度でありすぐに戻している。国債市場でのスムージングオペレーションが何度か入ったが、それはまさに「ピュアQE」であるため、その都度為替は円安に振れた。前回の記事はむしろ早期のYCC修正や撤廃がやって来ることを所与とし、撤廃後の「戦後」について多くの考察を行っている。「YCCからピュアQEに移行した場合、日米金利差の変動からは円高圧力になり得るものの、円滑な移行をサポートするためにBSを膨らませる可能性もあり、その場合は追加緩和とまで言えないとしても引締めではない。マイナス金利の撤廃は内田副総裁が釘を刺した通りかなり遠いし、その時の利上げ幅も10bpの牛歩にとどまる。いずれにしても構造的な円安と日米金利差の絶対値は残っているため、Fedが利下げサイクルに入るまで大した円高にはならないと思われる」としていた通りである。
Bloomberg Japan 10y yield after YCC shift
 4%台で推移する米長期金利と比べれば、日本の長期金利が0.4%台から0.6%台まで上昇したところで影響は限定的である。実際に為替をトレードする時にかかる短期金利差は動いてさえいない。他の資産価格も前日の警戒は強く、現にYCCの事実上の撤廃によって世界金利の最後の錨が外れた形にはなっているが、いざYCC撤廃が敢行されるとピュアQEへの円滑な移行になったため、海外金利もそれ以上荒れなかった。もちろん、これまで円債が超低金利であったから海外債券にシフトしていた日本の機関投資家がこれを機に円債に回帰し、海外金利が上昇しやすくなるのではないかという懸念も全く正当なものであるが、これはあくまでも長期的な話である。やはり本ブログがYCCの余命が短いことと併記してきたように、「たとえYCCが撤廃されたところで長期金利の1%超えは期待しづらいだろう。ということはやはり国債村以外にとっては大した出来事にはならないし、その程度の長期金利上昇で困らないのであれば備える価値もなさそうである」の通りになったのである。

今後の長期金利

 YCC撤廃を旱天慈雨として歓迎する今の需給環境下では10年金利の1.0%や、30年金利の2.0%は相当遠いだろう。マイナス金利撤廃まで視野に入って来ると前者を中心に上昇圧力がかかりやすい可能性もあるが、或いはその間にグローバル経済の雲行きが怪しくなればその遥か手前で反転するかもしれない。次のテーマは恐らく2024年度に入って「もし2%の物価目標達成(2年連続の2%超え)が決定的になった場合の、日銀にとって制限的な政策金利水準はどこか」であり、その水準と今のマイナスやゼロとのギャップで揺れる局面が中期的には出てきてもおかしくない。またそのギャップを緩和するために日銀が入手した自由を駆使して今後ステルステーパリングを進めてもおかしくないが、果たして。

関連記事

構造的になった円安と日本の金融、為替政策の再考 
植田日銀はYCCチャレンジを煙に巻いて撃退 
誰?な植田次期日銀総裁とYCCの余命

これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。


この記事は投資行動を推奨するものではありません。