
利上げサイクルがどう見ても終盤に近付きつつある中でも一向に債券に買い安心感が出て来ない。過去の前例では利上げが止まったらあとは利下げしかないので目を瞑って債券を買えばよかったことが分かっているが、2023年夏になってその瞬間が近づきつつあることが分かっている中でも長期金利は高止まりしている。インフレ退治はこれ以上加速しようがないものの、それが終わって政策金利が正常化した後の政策金利の居場所、つまり中立金利について論争が蒸し返されたからである。
中立金利には実質と名目があるが、インフレを入れるとそれ以上の議論がしづらいため実質中立金利の方が使われやすい。実質中立金利(r*, r-star)は自然利子率とも言い、マクロで投資と貯蓄をバランスさせる実質金利である。より分かりやすく言えば景気に中立的で、インフレにもデフレにもならない実質金利である。実質政策金利が自然利子率よりも高ければ引締め的であり、低ければ緩和的となる。と言うのは簡単だが、実質中立金利の水準を直接的には計算、或いは観察することはできず、複数のモデルを使っておおよその居場所を掴むしかない。つまり、雰囲気なのである。しかし理念的には金融政策を考える上ではこれを推計し、現実の実質金利の動向を自然利子率との相対的な関係で捉えていくことになっている。
そういう雲を掴むような話がどうして急に盛り上がってきたかというと、もちろん学術的な議論への興味が急に湧いて出たわけではなく、2022年から始まった利上げサイクルがインフレに対してなぜ満足に効いていないように見えるか、という問題提起がきっかけであることは間違いない。よりはっきり言えば、効いていないと思っている人が効いていないと言って回るために持ち出した、結論ありきのものである。あくまでも結論ありきだが、「実質中立金利がパンデミック後に上昇している」と言えばただのポジショントークでも何となく響きがアカデミックに、上品に聞こえるではないか。

名目の長期金利は既に数十年来のトレンドラインを突破しており、少なくとも名目ベースでは低金利時代は終わったように見えた。チャートはただのお絵描きだから無視できるとしても、3年前とは米国経済の様々な構造が大きく変わっているはずだ。しかし2023年5月にFedが改めて計算した中立金利は結局パンデミック前の長期低下トレンドから乖離しなかった。NY Fedのウィリアムズ総裁は「非常に低い自然利子率の時代が終わった証拠はない」と指摘し、Fedは中立金利への問題提起を黙殺したように見えた。IMFのエコノミスト達も主に人口動態からグローバルで趨勢的な中立金利低下は続いているとし、一方これまたかつて長期停滞論を打ち出すなど中立金利に一家言あるサマーズ氏などは中立金利のGFC後の低下は一時的なものであり、今後1.5~2.0%といったもっと高い水準に回帰していると主張する。
HLWモデル


Fedによる実質中立金利の推計にはウィリアムズ総裁も名を連ねるHolston-Laubach-Williams(HLW, 2017)モデルが使われており、実質GDP、物価、政策金利をはじめとするファクターを用いながら、長期的な需給ギャップと物価動向を実質金利ギャップの関数として捉えて実質中立金利を計算する。実質中立金利が(需給ギャップがない時の実質成長率である)潜在成長率と連動しやすいのも納得できる。パンデミックがGDP、アウトプットそしてインフレの数字のあまりものテールイベントだったためNY Fedはパンデミック後に中立金利の算出を一時止めており、2023年5月に再開した。これはNY Fedがパンデミックの影響を排除したモデルを作成したことで可能になったものであり、パンデミックの激しいノイズを通過した後、修正モデルは再び2019年以前のモデルとほとんど同じアウトプットになった。GFC後の中立金利低迷は続いているように見えた。
中立金利の弁証化

今年のジャクソンホール・シンポジウムのテーマが「グローバル経済の構造転換(Structural Shifts in the Global Economy)」になったことから、再び中立金利の上方修正の議論が出て来るのではないかという懸念が盛り上がった。それに応えてのことかは分からないが、NY Fedは8/9, 8/10の両日にわたってブログ記事を発表し改めて中立金利を論証した。記事の中でNY Fedは中立金利を短期、長期の二つに分け、短期にはDSGE(Dynamic Stochastic General Equilibrium)、長期にはVAR(Vector Auto Regression)とそれぞれ異なるメソドロジーを当てはめた。短期中立金利は今の政策金利が引締め的か緩和的かの評価に使える。長期中立金利はターミナルレートの評価に使える、というのである。二つのモデルはパンデミック前はよく一致していたが、パンデミック後はDSGEが示唆する短期中立金利はサマーズらが主張するように1.8%まで上昇していた。年末には2.5%まで上昇するとも言われている。一方VARが示唆する長期中立金利はHLWと同様、0.75%まで趨勢的に低下している。
短期中立金利(DSGEモデル)

DSGEモデルも枠組みはHLWモデルと共通である。こちらはもっと変数が多いが、DSGEが考える最近の中立金利上昇の背景は、我々が成長率を予想する時の考え方と大して変わらない。NY Fedの説明では、SPF(Survey of Professional Forecasters)で専門家が考えるアウトプット予想が堅調さを増し、一方で長期インフレ期待は大幅に低下したのが、全要素生産性(TFP, Total Factor Productivity)の向上として解釈されたためである。本ブログも供給制約の解消によりスタグフレーションの可能性が消え、ソフトランディングの確率が高まるとしてきたが、概ねそういう話である。本ブログなどは素早いディスインフレーションがもたらすソフトランディング確率の向上は長期金利低下を阻害するものだと途中から気付いたが、短期中立金利の考え方からするともろに金利上昇要因となる。実際DSGEモデルが示唆する中立金利の上昇ペースは見方によっては現実の引締めペースを上回ったとさえ言え、それが政策金利水準の割りに引締めが経済に効かなかった背景を説明するとNY Fedは解釈した。

NY FedによるDSGEモデルにおける中立金利の上昇をもたらした各ドライバーの説明は限定的であり、せいぜい「政策金利がこれだけ上昇してもクレジットスプレッドが広がらず、つまりフィナンシャル・コンディションがタイト化しなかったのがメイン・ドライバーである」と述べた程度である。これは本ブログが長らく憎悪し、攻撃してきた「フィナンシャル・コンディションが緩いから引締めが足りない」論の定量化に他ならない。TFP(全要素生産性)の伸び率低下は長期的に中立金利の低下方向に働き続ける。これまでのDSGEモデルの中立金利計算はインフレ予想と同様、チンアナゴのように改定されてきた(図)。サーベイのインフレ予想は2021年にはTeam Transitoryに偏っており、それが修正されるにつれて中立金利が上昇した。これでは確かに政策金利の評価を行うベンチマークと言うには頼り甲斐がなさすぎるアウトプットである。実際、中央銀行が普段から経済環境を分析しながら政策金利を決定する際の検討項目を指数化しただけにも見える。

クレジットスプレッドが拡大しないのは金融緩和が強すぎた時期に発行体が低金利で長期にわたって調達コストを固定したためであるが、発行体の金融引締め耐性を一時的な中立金利上昇と読み替えることは確かに可能と思える。つまり過去の強力すぎる金融緩和の効果は時空を超えて将来の中立金利にまで影響を与えたことになるが、それもリファンディングが進むまでの話であり、企業の調達コストがドライバーなら時間が経つにつれて中立金利が再び低下すると期待するのは合理的である。

また唐突に日銀を持ち出すようだが、日銀が日本の例を使ってDSGEの要因分解をより分かりやすく日本語で説明している。元IMFチーフエコノミストのブランシャール氏が「高齢化が進むと貯蓄を増やすようになるので金利が下がりやすい」と論じた人口動態のマイナス寄与も確認できる。技術進歩は最近になって伸び悩んだ。一方アベノミクスが始まってからは金融市場の機能度はプラス寄与になった(横ばいとの結果を得る手法もある)。
長期中立金利(VARモデル)

VARモデルはもっとサイクルの影響を排除した長期のファクターに着目する。事後的に観測される実質金利の中間値は1970年に3%近辺でピークアウトした後に40年間以上にわたる下落トレンドに入り2016年に0%近辺を付けた。その間、世界各国の金融市場の統合に伴い、米国とグローバルの長期トレンドにはほとんど違いがなくなった。

よく取り上げられる「長期ファクター」はいくつかある。生産性の伸び率は主に米国以外で趨勢的に鈍化してきた。グローバルで恐らく高齢化に伴い一人当たり消費の伸び率は構造的に低下し続けている。国債や投資適格社債の利回りから算出される安全資産のコンビニエンス・イールドの上昇は中立金利の低下に作用した。一方で主にGFC後の安全資産の供給増は中立金利をやや上昇させた(ただし本ブログが非駐マネーと呼ぶ海外の外貨準備からの安全資産の需要増はそのインパクトをやや打ち消した)と言われている。これらの長期ファクターはパンデミックをはさんでも大きく変わらなかったと言われて納得はできるだろう。パンデミックで大きく変わったことと言えばFed BSが大幅に巨大化したが、それ自体が中立金利の居場所を変えるとする先行研究は見当たらない。更にその後の国債増発とQTは中立金利をマージナルに上昇させるだろう。
3つのモデルの雑なまとめ

最初の方でNY Fedが当たり前のように用いていたHLWモデルとの整合性はどうなっているのか。低頻度データに注目するHLWモデルはVARモデルとDSGEモデルの中間という位置づけになりそうだ。DSGEにも期間構造があり、長いほど動きが少なく、短いほどボラタイルになる。では長期DSGEは「長期モデルであるVAR」に近付くかというと、VARはシクリカルなファクターを最初から無視を決め込んでいるため、DSGEが独自に与える長期的な情報も存在する。ただ、例えばGFC後に少なくとも一度は中立金利が大幅に低下したのはDSGEもVARも同意するところである。HLWと最も関連付けられやすいDSGEは5年らしく、現に5年ものDSGEとHLWを重ね合わせると長期的にはよくフィットしており、直近でもバラバラになった後に再び1%台で交わる、めでたしめでたし、というわけである。上下からそれぞれ1%台に近付いているのですぐにまた物別れになりそうだが、気にしてはいけない。
Fedが短期・長期の中立金利を分けて持ち出した理由は、「なぜ金融引締めはあまり効かなかったのか」の研究成果に加えて、実用的なものもあるとすればその目的はどのあたりにあるのか。利上げサイクルがどう見てもピークに近付きつつある中で、あとは長期的な中立金利に向かって利下げするだけだと見られると長期債バブルを起こされてしまう。となると1、2年スパンの確実な政策金利の高止まり(High for longer)をイメージさせる理論を提示した方がいい。一方、無理な利上げは「どうせ何かを突っついて失敗して利下げに追い込まれる」というポリシーエラー・トレードの餌食になりがちなので、Fedは利上げ再加速にも明らかに興味がない。せいぜい市場参加者が追加利上げを先に織り込んだらパッシブに追従するくらいである。その方が市場参加者に隙を与えず長期金利を高めに維持しやすい。従ってコアPCE 4.6% +中立金利で名目政策金利を6%まで持ち上げかねないDSGEに全振りするわけにもいかないのである。
ジャクソンホール当日

そうこうしているうちにジャクソンホール当日になった。率直に言ってこの日に中立金利が上昇したなどという話がいきなり出てくるはずがなかった。ジャクソンホールは本来そのようなイベントではないからだ。しかし市場参加者にとって2022年8月のジャクソンホールでのパウエル議長の「怒りの8分間スピーチ」はあまりにもトラウマだった。議長本人もそれを承知しているようで、冒頭から「今年のスピーチは昨年より少し長い」などとジョークを飛ばした。話題がインフレ退治に始終する限り、通常のFOMCの範囲から議長本人がいきなり逸脱するはずがない。肝心の中立金利については「実質政策金利はいまやプラス域であり、またメインストリームの算出方法で見た中立金利を大幅に上回っている。(上回っているので)今の金融政策は制限的(引締め的)であり、経済活動とインフレーションに下向きの圧力をかけている。もっとも中立金利の水準について確実な特定はできず、従って引締めの強さについては不確実性は残る」と述べるにとどめた。最後には"As is often the case, we are navigating by the stars under cloudy skies."とまとめているが、これはr* (r-star)とstarを掛けているかどうかは分からない。いずれにしろ、星(中立金利)が見えたら苦労しないのである。
「メインストリームの算出方法を大幅に上回っている」とは、FedはDSGEモデルや巷の中立金利上昇説には与しないということである。中立金利の確実な居場所が分からないのはこれまでの(結果が合わない複数のモデルを駆使してきた)Fedの研究の結論通りでもあり、目新しい議論はなかった。こうして市場参加者の中立金利の予習は全て無駄になったのである。というより、急に中立金利についての斬新な議論が出て来るはずがないので、予習して備える自体がジャクソンホール・シンポジウムへの無理解の証拠であり、意味のない組織ぐるみの自己満足大会への保身のための迎合であり、恥である。最初から警戒しすぎと軽視する脳死ブルが市場参加者の過半数を占めない限り、ただのイベント通過以外のイベントになりようがないのである。9月に入って長期金利は再び上昇しているがそれはもはやジャクソンホールとは関係がない。9月はよく知られた長期金利が上昇しやすい起債シーズンであり、長期金利上昇こそが予定通りなので金利ボラティリティの再上昇には繋がらなかった。
感想

3つのモデルを動員した結果、結局Fedが言うように「中立金利の正確な居場所はよく分からない」という結論になるのは仕方がない。長期的な中立金利がパンデミックをきっかけに変わったと考える根拠はなく、HLWモデルもVARモデルも長期的な中立金利が0.5%~0.75%程度としている。一方DSGEモデルが示唆するように、我々が体感できる金融引締めの効きづらさは短期的な中立金利の上昇を示唆していてもおかしくはない。しかしDSGEモデルやサマーズが言い張る中立金利の上限もせいぜい2%近辺である。であれば、既に長期実質金利が2%まで上昇している今、たとえFedがDSGE全振りにモデルチェンジしたとしても、中立金利の上昇はなおも長期実質金利(長期金利)の上昇要因にならないのである。HLWモデルやVARモデルによればコアPCEがFedの目標である2%近辺まで戻った後の政策金利は2% + 0.5%~0.75% = 2.5~2.75%程度ということになる。つまり純粋期待仮説の考え方では10年金利の4.2%、30年金利の4.3%は相当長い期間(10年~)にわたってコアPCEが物価目標まで戻らないことを前提としている。一方DSGEモデルは中期金利が一時的に2%台まで上昇し得ることを論証したが、DSGEモデルは足元の効き方を追いかけているので10年レベルの長期金利の議論に用いるべきではない。

本来、中立金利の概念はベンチマークとして使う以上は長期的であるべきで、金融政策の効き目を見ながら短期的な中立金利を逆算する試みは名目政策金利を大幅に変動させることになる。つまりインフレが高ければ高いほど、それは金融緩和が効いていない=中立金利も高いことを意味するので、名目の政策金利はインフレ分と、インフレの高さから観測される中立金利の上昇分を同時に引き上げなければならない。現にDSGEモデルは直観的には目眩がするほど素早いFedの利上げサイクルを正当化した。しかしそれだけに、一旦景気が減速してインフレが目標に近付いた場合、それはインフレ率低下に加えて同時にDSGEモデル中立金利の低下をも示唆するので、名目政策金利も「極めて急速に」引き下げなければオーバータイトニングを招くことになる。長期的にコアPCEが2%に戻るとして、それにDSGEモデルの中立金利2%近辺を足して均衡名目政策金利4%を得る論理は間違っている。コアPCEが2%まで戻るならばDSGEモデルの中立金利も下がって来るに決まっているからである。つまり政策金利の4%は利下げサイクルの中では恐らく加速しながら通過する水準になるだろう。一方、コアPCEが2%を間違って通過するようなデフレーションにはならなそう、そしてパンデミック後にそうは言っても何らかの長期的な構造変化があったと考えるならば、長期金利が今サイクルのインフレ圧力が完全に消えるまで3%を割り込むと考える理由もない。2.5%(!)となっているFedのロンガーラン金利も多少の引上げがあってもおかしくない。もっともそれは現状4%を超える長期金利に対して大した影響を与えないだろう。4%台の国債投資で長期的に損し続けるには複数のレジームチェンジの合わせ技が必要である。
関連記事
Read Powell’s Full Speech From Jackson Hole Symposium - Bloomberg2023/5
Measuring the Natural Rate of Interest: Past, Present, and Future -NY Fed
Measuring the Natural Rate of Interest After COVID-19
Measuring the Natural Rate of Interest (Data) -NY Fed
2023/8
The Post-Pandemic r* - Liberty Street Economics
The Evolution of Short-Run r* after the Pandemic - Liberty Street Economics
Safety, Liquidity, and the Natural Rate of Interest (2017)
Measuring the natural rate of interest: International trends and determinants (2017)
Global trends in interest rates (2019)
Supply of Sovereign Safe Assets and Global Interest Rates (2021)
これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。
この記事は投資行動を推奨するものではありません。