7月のYCC再修正を経ても日本の国債市場は概ね秩序を保った金利上昇が続いており、一方為替市場でもじわじわと円安が進んだ。そこに再び、日銀の植田総裁の読売新聞の単独インタビューが大きな波紋を呼んだ。曰く、「賃金上昇を伴う持続的な物価上昇に確信が持てた段階になれば、大規模な金融緩和策の柱であるマイナス金利政策の解除を含め"いろいろなオプション(選択肢)がある"と語った。現状は緩和的な金融環境を維持しつつも、年内にも判断できる材料が出そろう可能性があることも示唆した」。年内に実際にマイナス金利政策を解除する可能性が低い、或いは喫緊性が低いのであればあえてそのような表現をする必要はないので、年内のマイナス金利政策解除は一気に現実化した。マイナス金利政策撤廃の時の利上げはゼロ金利への10bp幅利上げになることは内田副総裁が既に述べていたが、短期金利市場では来年1月会合までのその10bp利上げの織込みはほぼ完全に進んだ。長期金利の方は7月会合のYCCの再修正を受けて0.4%台から0.6%台まで上昇した後、マイナス金利政策解除の早期化織込みで更に0.7%に載せている。為替市場の反応はもっとマイルドであり、ドル円は一時2円弱ほど円高に振れたがすぐに全戻ししている。
マイナス金利政策解除
マイナス金利政策に限らず、次の金融政策変更の時間軸は来年以降とされていた。もともと4月会合で物価目標が「2%」から「賃金上昇を伴う形での2%」に拡大解釈され、それが観測できるのは早くて来年の春闘であるため、「1年以上のレビュー」との合わせ技で金融政策変更の期待をいきなり1年以上先まで吹き飛ばしてしまったのがその始まりであった。その時本ブログなどは「近い将来の政策運営、政策変更について何か分析をするということですと、1 年半もかけていたのでは間に合わない」「その間に出口、正常化と申し上げましょうか、を全くしないというか、正常化を始めるという可能性もゼロではない」の部分をネチネチと取り上げて「レビュー中の金融政策変更は否定されない」としていたのだが、実際1年どころか3ヶ月後にはYCCが実質的に撤廃された。前回の記事でも述べたように、次に視野に入って来るのがマイナス金利政策の撤廃になるのは自然だが、そこまで早期撤廃の喫緊性が高いとは一般的に思われて来なかった。せいぜい田村審議委員が8月末に「来年1~3月にマイナス金利撤廃の判断を行う可能性」を指摘しているが、田村委員は一般的にタカ的と目されてきたためあまり材料視されなかった。YCC再修正の背景は「物価上振れの恐れ」と「為替市場のボラティリティ」となっていたが、それらのファクターは他の金融政策ツールにも通ずるものだ。「物価見通しは特段変わっていないが、市場機能だけが悪化したためYCCだけ修正した」という話ではなかったのである。「YCCの撤廃で初めてマイナス金利政策の撤廃について考えることが可能になる」だけでなく、YCCの実質的な撤廃とマイナス金利政策撤廃は連続的になっていると考えるべきだ。それらはコアCPIの高止まりを受けて会合ごとに上方修正を余儀なくされている物価見通しの影響を一様に受ける。
植田総裁の取材記事の後、YCC再修正の時と同じように反対方向の観測記事も出ている。前回は内田副総裁自身の取材記事だけを頼りにすべきであり、その後の有象無象の牽制やリーク記事を参考にしてはならなかった。今回も同様と素直に考えている。黒田日銀は市場の織り込みが進みすぎると逆らいたくなる性格が強かったが、植田日銀も同様であると考える理由はない。しかし、春闘を待たずに一度きりで終わらない賃上げや「賃金主導の物価上昇」をどのように観測するのだろうか?労働組合の全国組織である日本労働組合総連合会(連合)の来年春闘の賃上げ目標は11月には発表される。それと企業利益などから翌年の賃上げ幅の見当が概ね付くとも言われている。もっとも昨年の要求に対する企業側の回答は大したことがないと広く思われており、実際には相当な賃上げになったため、要求を見て回答を予想するのは無理があるのではないかと思える。しかしそれでも「来春の賃上げ動向を含め、年末までに十分な情報やデータがそろう可能性はゼロではない」とわざわざ述べたのは、結論先行でも「来年の春闘まで一層の金融引締めはない」わけではないことをとにかく織り込ませたいためではないか。この結論先行な雰囲気はYCC再修正に際してのリークに見られたものと同様である。
もっとも今回の場合、ゴールは前回ほど明瞭ではない。つまり9月会合での何かサプライジングな発表を示唆しているとまでは言えず、いまだ残る金融緩和バイアスからの方向転換とマイナス金利政策撤廃に向けたアナウンスメントは漸進的に進められるだろう。植田総裁がフォワード・ガイダンスを重視するMIT学派に属する以上、マイナス金利政策の撤廃は丁寧に事前に織り込ませようとするはずだ。突如YCCが再修正された7月会合となぜ違うのかというと、本ブログが1年半前から言ってきたようにYCC修正は突然にしか発表できないが、政策金利変更は市場参加者が先に織り込んだところで困ることはないからだ。よほど短期の金利スワップで生計を立てている参加者でもない限り、マイナス金利政策撤廃が今年末だろうと、実行が来年春で予告が今年末になろうと、もはや大した違いはない。
マイナス金利政策もどう見ても金融緩和の中でも特殊(非伝統的な金融政策。そして一貫して不評だった)であり、それの撤廃とプラス域での利上げサイクル入りにはまた温度差がある。とはいえ、元々ステルス・テーパリングのために考え出された、何とも言い張れるYCCと違って、マイナス金利の撤廃はかなり明確な金融引締めであり、金融緩和継続や円安を望む勢力からの強い抵抗が想定される。それもマイナス金利政策の維持がどんなに筋論として間違っていたとしても、差し迫った撤廃はないと多くの市場参加者が思考停止してきた背景であった。
喉に刺さったYCCの骨
7月のYCCの再修正さえも、金融緩和継続や円安を望む勢力からの警戒と牽制を招いた。実際、修正案がああもマイナス金利政策撤廃の織込みプロセスでYCCの残骸は再び邪魔になる。政策金利が0%になるなら、長期金利の誘導ターゲットも名目上0%(YCC政策は長期金利を0%近辺に誘導するものであるが、具体的な運用としては±0.5%の変動幅を目途としている、しかしその変動幅を実現するための買支えはあくまでも+1.0%で行う)では全くフラットな金利カーブを理想としていることになるため、遅くても0%への利上げと共に上方にパラレルシフトせざるを得ない。実務的にも、1%まで後退させた絶対防衛線もこれまで買い支えてくれるはずの邦銀等が――マイナス金利政策の早期撤廃の浸透に伴い――ハシゴを外したら必ずしも安全ではなくなってしまう。0.5%近辺の攻防を1%近辺で再現したくないとすれば1%での買支えも利上げ開始前に先に引っ込めた方がいいということになるが、かと言って現水準の遥か後方にあった1%の防衛線がいきなり取っ払われたら、それはそれで市場参加者に痛くもない腹を探られることに繋がる。そもそも、年末から逆算するとYCCの再々修正をアナウンスできる残りの会合の数は限られている。
日本の中立金利
マイナス金利政策撤廃後の長期金利の居場所はその後の政策金利パスと、国債需給がもたらす財政プレミアムから考察することになる。植田総裁のレビューのスコープに入っている過去30年間にかけて、日本銀行の利上げサイクルの上限は0.5%であり、植田日銀は0.5%近辺より上での利上げ推進に対して心理的には非常にリラクタントだろう。一方、もし継続的な2%の物価目標達成が決定的になった場合、0%や0.5%の政策金利の正当化は果たしてできるのか。直観的には政策金利も2%までジャンプし、長期金利も2%までジャンプするのではないか?これを整理するのは再び中立金利になる。もし中立金利が0%なら2%以上のCPIを2%以上の政策金利でしか引締められないが、もし中立金利が -1%なら1%程度の政策金利でも十分、ということになる。
ここで米国の中立金利の記事でも取り上げた数年前の日銀の中立金利推定を再び持ち出すことになる。どのモデルを用いても日本の中立金利は -1~1%の間に収まっている。また潜在成長率も0%近辺で地を這っているとはいえマイナスではないため、なかなか中立金利が -1%より低いとは想像しづらい。過去の利上げサイクルがことごとく挫折したのは――日銀の代わりに勝手にレビューすると――2000年はCPIがまだ0%にすぎない中でゼロ金利からの「正常化」という目的が先行したためであり、2006~07年のコモディティ・バブルは一時的なものであった。いずれのケースでも継続的な2%以上のCPIを引締めようとしたわけではない。従って日本の中立金利が -1.5%より低いとまでは言えず、今サイクルの物価上昇がもし継続的な2%以上となるならば、過去の挫折を気にすることなく0.5%以上まで政策金利が引き上げられると見るべきだ。一方で人口動態、突出した公的債務残高やそこそこ増えた変動金利住宅ローン残高の存在を考えると、中立金利がマイナス域にはあるとの主張も受入れられやすいだろう。
長期金利の居場所
そもそも今サイクルのインフレの問題は今後1~2年間にわたって引締めない言い訳が苦しくなるというだけで、本当に継続的な毎年2%のインフレが実現すると決まったわけではなく、今トレードされているのはあくまでもそこまで「上振れする確率」にすぎない。であれば2%の物価目標から -1〜0%の中立金利を足した水準から0%にかけてのどこかに将来の政策金利の期待値、すなわち長期金利が位置するのは何の不思議もない。マーケットベースのインフレ期待は――歴史的に物価連動国債の水準はあまり当てにならないことが分かっているものの――10年間で1%を超えたあたりである。1%未満の長期名目金利は実質長期金利のマイナス域となるので低いとは感じるものの、2%のインフレ目標を継続的に達成できる確率がよくて半信半疑、中立金利もマイナス域にあると決め込めば、純粋期待仮説からはアンフェアと断言できるほど低いわけではない。
30年金利は大手生保の負債利回りに当たる2%近辺が強いサポートとなる。10年後から30年後にかけて短期金利はもっと高いなどと今から織り込む意味は皆無であり、むしろ今のインフレが終息する(2%以下に戻る)のにかかるのが1年か2年以上かの議論しかしておらず、まさか2053年まで30年間にわたって2%インフレが続くとは誰も言っていないので、日本円の30年金利の2%超えは財政プレミアムから得られるフリーマネーであると断言できるだろう。YCCが撤廃されて自由行動になったとしても、円金利の10年1%や30年2%は強いサポートになると思われ、そこからインフレが実は3~5年ほど待ってみたらやはり未達に戻る確率、海外経済が大きく減速したりリセッションに陥る確率の分だけ下にシフトさせることになる。
であればYCCの残骸である1%での買支えはあってもなくても大して問題にならない。前回の記事まで本ブログはYCCの撤廃をあくまでも「ピュアQEへのシフト」と表現してきた。YCCが「設計上は中途半端の火力であるが、実際には火力をコントロールできないパッシブなQE」であるとすれば、そんな扱いづらいものは取っ払って普通の相応の中途半端な火力のQEにシフトすればよい、ということだ。YCCからの移行期のピュアQEが円安圧力になることもYCC撤廃を予想した時から述べてきた。しかし、日銀が円安推進まで目指しているわけではないとすれば、YCCからの移行が概ね平穏に済んだ今、ピュアQEも不要になるのではないか。
潜在的なQT
植田総裁は5月時点で既に金融緩和の出口戦略について「持続的安定的に2%(の物価目標)が達成される見通しに至ったら長短金利操作をやめ、バランスシートの縮小に取りかかっていきたい」と述べている。つまり一旦2%の物価目標達成が現実化すると、マイナス金利政策の撤廃と前後して現状600兆弱の国債保有規模の縮小もいずれ議論される可能性が高い。日銀の国債保有残高はYCC防衛でパッシブに増やした2022年が例外で、2021年も2023年も横ばいが続く。ということは次の量的引締めに動くとすれば、テーパリングというより直接QTになる。Fedのケースと同様、日銀が保有する国債も償還が次々とやって来るので、買入れオペでの再投資を減らすだけでQTが進む。その場合は財政プレミアムの拡大を通して金利カーブの一層のスティープニングが促される。もちろん公的債務の残高が金融システム対比で大きすぎるため、国債消化の一部は永久に日銀の買入れに依存することになるのは論を俟たない。
為替への影響
為替のヘッジコストに効いてくるのはあくまでも短期金利であり、YCCと違って(高々10bpとはいえ)マイナス金利政策の撤廃は初めて外貨と円の短期金利差に働きかけることになる。高々10bpでは諸外国のこれまでの利上げ幅や諸外国との金利差と比較してあまりにも小さいが、仮に日銀が本当に金融政策を使って円相場の水準を抑えたいと考えている場合、ツールキットにはまだ様々な手段が残されているし、ここまでの議論で見てきたように、それらのリストも植田総裁が既にオープンにしている。各所に残る円安志向派、金融緩和志向派の残党を納得させるために「これは利上げではない、引締めではない」と言い張れる範囲の施策しかやって来なかったのが今なのに、いきなり引締めや円安対策の限界まで飛躍するのは論理的ではない。円安志向派、金融緩和志向派の残党を駆逐できないこと自体が日本の限界とまで話を広げるならともかく、である。現実には昨年150円台で円買い為替介入を行ったくらいなので、少なくとも150円以上以上の円安が好ましくないことは当局内でコンセンサスが取れていると考えてよいだろう。為替介入の根拠は当然財務省の説明通り為替市場のボラティリティであるが、ボラティリティが高まっても為替介入を行わない自由もあるからだ。ボラティリティ上昇(加速的な円安)には財務省がスポット介入で対応するとして、水準そのものに対応するのは暗黙的に日銀の役割という分業が出来上がりつつあるのではないか。
もちろん長期的には為替レートは両国の中立金利同士の勝負になる。仮に日銀の引締めサイクルがインフレに追い付く前から国内景気、政治の圧力或いは国債利払い負担の壁に当たって挫折し、事後的に中立金利が深いマイナスだった、つまり永久的に深いマイナスの実質金利を甘受しないといけないと判明すれば円安の加速は避けられないが、まだそこまで決まったわけではない。議題はまだ日銀が引締めを選択するかどうかの段階まで来たにすぎず、今から引締め挫折後まで見通す喫緊性はない。日米金融政策のサイクル格差は「米国引締め、日本緩和」から「米国据置き、日本引締め」にシフトしつつある。米国といえども中立金利が1%を大幅に離れて上昇したのは一時的という本ブログの見方は維持している。なかなかやって来ないから困っているのだが、日銀が待ち焦がれていたFed Pivotがやって来れば全てが楽になる。これまでは「中立金利勝負で負ける」という長期トレンドと金融政策格差の短期トレンドが重なっていたが、短期トレンドも完全に無視してよいわけではない。中立金利勝負で諸外国に負けるのは日本でFXが流行り始めて以来ずっとそうではないか。もちろんFed Pivotがやって来るまで5%以上の名目政策金利差のパワーは絶大であるし、実質政策金利どころか長期実質金利さえもマイナス域にいる間は円安圧力が消えることはない。円資産と米ドル資産の保有を検討する時、金利込みではまだまだ後者が有利に決まっている。しかし一直線にドル円の数字が上昇するフェーズは既に通過しつつあるとは言えるのではないか。
経常収支もコモディティ価格高騰と輸出の供給制約、そしてインバウンドが途絶した2022年後半がボトムである。長期的にはインバウンドで肉体労働を頑張ってもサービス収支赤字は改善しなさそうだし、また資産運用の米ドル化と共に円売りフローが続く可能性が高いが、それでも2022年は例外的な最悪期だったと後になって振り返れることを期待したいものである。
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この記事は投資行動を推奨するものではありません。