直近の株式指数の値動きを最も綺麗に説明する切り口の一つが「S&P 500の債券化」であることに異論は既に少ないだろう。S&P 500のフォワードEPSから計算される益回り(フォワードPERの逆数)と10年国債利回りを比較したエクイティ・リスクプレミアム(ERP)はGFC後の全ての領域を下に抜け、GFC前の2000年代の水準と比較しても低くなっている。特に2023年に入ってからはこれが著しく、GFC前の200bpを抜けたと思ったら数ヶ月でわずか25bpまで縮小している。10年後に必ず返って来る安全資産である10年国債と比べてS&P 500で様々なリスクを取っても利回りが25bpしか増えないのである。
ERPの急激な縮小は、2023年に入ってから株式指数が国債をアウトパフォームし続けた、具体的には株式指数が債券ほど値下がりしなかった結果である。2022年はTLTとQQQが似たような値動きになっていた(同じようなリズムで売られていた)が、2023年は株式が大幅にアウトパフォームした。特にAIバブルストーリーでメガテックのアウトパフォームが目立った。メガテック以外のセクターは債券より少しまし程度のパフォーマンスである。
そのメガテックも直近で金利上昇に逆らって上昇相場を牽引するには力不足に見えてきた。もっとも「メガテックが上げ止まると指数が下がる」だけで、相対的には借入が少ないメガテックの金利高耐性が圧倒的に強い構図はずっと続くだろう。
米国企業の配当利回りはとっくに長期金利より低くなっている。という話をすると「いやいや米株には自社株買いがあるから総還元利回りで比べるべきだ」と言われがちであり、実際ヒストリカルで見ても配当利回りの方が遥かに低い時期が長かった。AAPLなどは社債が5%台であるのに対して配当利回りは0.5%である。しかし、全ての還元の出所である益回りが国債利回りと大して変わらないようでは、株式投資は投機と言って差し支えないだろう。つまり何かキャピタルゲインを獲れるストーリーがないと値を保てなくなるのである。
現に成長ストーリーが乏しい高配当株は米国債対比で配当利回りが魅力的に見えなくなったため指数対比でも人気がなくなっている。
株高を説明するインフレ・レジーム
もっとも、インフレヘッジ能力は株の方が優れている。インフレ下のリセッションを株式が逃げ切れる可能性を指摘した昨年の記事でも取り上げたように、株式のEPSは名目値である。冒頭のチャートではフォワードEPSが使われているので1年程度のインフレの影響を含む増益幅は既に織り込みれているが、2年目以降も保有資産もEPSもインフレに連動する形で成長する(インフレ・レジーム)。もっと分かりやすく表現すると、中身が何であれ名目GDPが伸びている間はEPSは伸びるのである。
実質金利と実質成長
名目GDPのドライバーがインフレから実質成長に移行した場合は尚更である。EPSは実質成長の分も当然成長すると思われている。高い実質成長を金利市場は高い実質金利で表現しがちだったため、ヒストリカルに見ると実質金利が高い時ほどERPが低くても許されてきた。ERPを実質金利との比較で評価する見方もあり、それによると1987年のブラックマンデー前や2000年のドットコムバブルではERPがゼロに近付いていたのが今は300bpほど付いている。ERPはリーマン後の長期平均は540bpだったが、高い実質金利などを理由にERPが1980年〜リーマンショックのドットコムバブルを除く期間の平均だった300bpまで低下しても正当化できるとBofAはしている。
確かに1945年~レベルの過去ならそういう時代もあったので高い実質金利は高い実質成長を意味していただろう。しかし、今の実質金利は果たしてそうだろうか?もちろんいつまでも消費が堅調でGDPが滑らない(実質成長はリセッションと騒がれるほど極端に低くない)ものだからストーリーを持った米国債の買い手が現れないのは実質金利が上昇した一因ではある。しかしそれは実質金利が「下がらない」要因でしかなく、基本的には前回の記事でも述べたように、米国債はデュレーションの需給の悪さで「ただ売られたにすぎない」。金融政策への期待の変化ではなく「タームプレミアムの拡大」による金利上昇とはそういうことである。従って実質金利も「ただ上昇したにすぎない」。であれば直近の実質金利の上昇は株価に対して引締め(バリュエーション切下げ)効果を持つと考える方が自然である。
現にここ数年を見ても、S&P 500のPERと実質金利はよく連動してきた。それが2023年に入ってこれまでにない勢いでデカップリングしているのは事実であるが、上のセクター別パフォーマンスを見ても分かるようにS&P 500の堅調さがナスダックの独走のおかげで維持されてきたことを考えても、実質成長が高い好景気云々の織込みではなく、特定のテーマが別途牽引しているのは明らかである。
債券の方は10年で実質金利が2.4%になっているため、非常に雑に言って長期で2.4%以上が続かない限り実質成長は株式を味方しない。
発行体にとってのERPの意味
投資家サイドだけでなく発行体サイドから見ても、調達金利が上昇したため企業がBSを維持するコストは増大しており、2023年に入って自社株買いとM&Aは減速した。自社株が社債と同程度の利回りしかないなら、社債を発行して自社株を購入する行為の合理性が薄れて来るからである。同様にM&AでBSを膨らませる決定も下しづらくなる。
ブラックマンデーについて
概ね株高が続く中での金利の急速な上昇は1987/10/19に起きたブラックマンデー前夜と共通であり、ちょうど日付も近かったため日経やBloombergなど複数のメディアがブラックマンデーとの類似点を語る記事を出している。1987年では春から長期金利が急騰し、それを4ヶ月ほど無視する形で株式指数が上昇を続けた。長期金利の大幅上昇だけでなく、株式指数が急速に上昇し、調整に入った後に大天井に届かなかった二番天井が存在したことも2022~2023年のチャートとの共通点として挙げられる。
過去のチャートを今と重ねても得るものは少ない。チャートの共通点よりも、1987年の相場そのものの方が現在の相場を解釈する上で役に立つだろう。1987年前半の株高・金利高の組合せは景気回復と共にマイルド・インフレが戻ってきたことで名目値である企業収益が膨らむとの期待に基づくものであった。インフレの背景として原油価格の上昇も挙げられたが、原油高も米国石油企業の設備投資の拡大に繋がった。今でも先ほど取り上げたように「インフレ・レジームへの回帰では名目成長が伸びるため株式の割高さ(低いERP)を容認すべき」との声があるが、1987年前半はまさにそういう時期であった。マクロ環境は1985年のプラザ合意後のドル安の流れが続いており、また1986年のロンドンG5では協調利下げが合意されており、先進国は概ね利下げサイクルにいたため今のドル高・引締めサイクルと全く異なる。1987年2月には米ドル安阻止を目指すルーブル合意が取られており、米国の経常赤字拡大由来の米ドル安を他の先進国の中央銀行が為替介入で支えた。そんな中で西ドイツがインフレ退治のために国債金利の高め誘導(抜け駆けの引締め)を始めたのに対して米国が激怒し、主要国間で足並みが乱れたことがブラックマンデーのきっかけになったと言われている。米ドル資産を支える流動性は各主要国中銀の協調緩和と協調介入によってファンディングされていたためである。1日22%もの下落を直接招いたのはブラック・ショールズ方程式とプログラム売買の応用によって可能になり機関投資家の間で大流行したポートフォリオ・インシュランス戦略であると言われている。多くの機関投資家はポートフォリオ・インシュランスによるダウンサイドの保護を前提として過大な株式ポジションを取っていたし、ポートフォリオ・インシュランスは相場の下落とボラティリティ上昇を受けて各所で一斉にヘッジ売りの追加を指示するものの、理論と異なり実際の市場ではそれを吸収できる流動性が存在しなかった。今でも様々な機械的な戦略が流動性ユーザーとして泳ぎ回る中、S&P 500先物の流動性がしばしば枯渇することが知られているが、さすがに1987年よりは遥かにましである。
ブラックマンデーの教訓は、マイルドインフレ・レジームを理由とした金利高・株高の許容はしばしば悲劇的に終わるということである。ブラックマンデーより遥かに小規模ながら、2017年後半から2018年にかけての金利高・株高もVIXショックで終わった。インフレが加速すれば、Fedによるものか海外中銀によるものか、はたまた債券自警団によるものかは別として、発作的な金融引締めに見舞われて株式市場がクラッシュすることがある。株式にとって追い風になるのはあくまでもマイルドインフレである。かと言って今からインフレが順調に減速した場合、インフレ・レジームへの移行そのものが否定されるだろう。その場合、インフレ・レジーム下のみで許される低いERPは許されなくなるに違いない。もちろんその場合は同時に金利も低下するので絶対的にはそこまでの株安には繋がらないかもしれないが、2023年中の株式指数の債券に対するアウトパフォームの巻き戻し余地は大きい。両者の相関が既に正になっており、その上でERPが既に全く潰れていることから、インフレが高進すると思えば短期債、インフレ・レジームが終わると思えば長期債で株式指数を代替して問題ないだろう。深刻なリスクオフ・イベントが起きないマイルドインフレの継続という狭き門へのベットのみが株式の選好を正当化する。
米国の年金基金のファンディング比率は2023年に入って100%を大きく上回っている(要求利回りをカバーできるほど株式の含み益が貯まっているため、今後しばらく超過リターンを稼ぐ必要がない)。家計も2020年以降に大幅に減らした債券を復元し始めている。今は債券の買い手が全然思い付かないが、一旦米国のハードデータがインフレ・レジームへの移行を否定し始めたなら、このあたりが派手に株式から資金を抜いて債券に投入するだろう。
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この記事は投資行動を推奨するものではありません。