Zelensky and Zaluzhny
 消耗戦が続く中ですっかり「忘れ去られた戦争」の色が濃くなってきたウクライナ戦争。アホらしいことに、前線が苦戦する中でゼレンスキー大統領によるヴァレリー・ザルジニー武装部隊総司令官の更迭という茶番にも我々は付き合わざるを得なくなった。本ブログも好意的に評価してきたザルジニー大将と大統領府の対立は前回の記事の時点で有名な話になっていたが、結局陸軍総司令官のオレクサンドル・シルスキー大将と交替させられた形になる。戦局が逼迫する中で総司令官を入れ替えること自体が禁じ手であるし、ザルジニーの国民的人気が高かったため、一般的にこの人事は非難轟々であった。ゴシップが話題ならゴシップらしく、新旧総司令官の経歴を漁るところから始めよう。

シルスキーとは誰か

Syrsky and Zelensky
 シルスキー大将のキャリアはソ連とロシア、ウクライナの複雑な歴史そのものの象徴である。シルスキーは1965年7月にモスクワから200kmほど離れたヴラジミール州で生まれた。多くのソ連軍及びロシア軍将兵と同様、シルスキーも軍人家庭に生まれ、父の異動に伴い1980年からハリコフに移住した。ハリコフの高校を卒業すると1982年にモスクワの高級軍事指揮アカデミーに入学した。同級生の大半はその後ロシア軍の将校になったが、シルスキーと同年代のウクライナ軍将校にも似たような経歴を持つ人が多い。1986年の士官学校卒業からソ連が崩壊する1991年にかけてシルスキーはソ連軍に所属し、アフガニスタンとチェコスロバキアに駐在した。彼の戦役指揮スタイルはその時の訓練や経験によって形成されたと分析する軍事アナリストも多い。
The Soviet Army
 1991年にソ連が崩壊すると、各地に配置された合計300万人のソ連軍の扱いは難題になった。軍上層部はCISの下で統一した軍組織を維持することを望んだが、既にソ連政府にはソ連軍を守り切れる体力がなかった。結論が出る前から新しいウクライナ政府が率先してキエフ、沿カルパチア、オデッサの三軍管区のソ連軍をウクライナ国軍に編入したためCIS軍創設は立ち消えになり、各地に駐屯するソ連軍は(とにかく追い出したかったから電車で送り返したバルト三国を除いて)それぞれの共和国軍に分割された。結局ウクライナは接収した核兵器と黒海艦隊を含む膨大なソ連軍部隊を維持できず軍縮を行うことになるが、とにかく、ハリコフ近郊に駐屯していた若いシルスキーはロシアに帰還せず新生ウクライナ軍の一員になることを選び、8年間にわたるドンバス戦争への従軍を経て2020年8月に大将に昇進した。シルスキーはソ連軍士官としてのウクライナ異動をきっかけに、今もロシアの故郷に住む父親と兄弟とは完全に分断されてしまった

 2022年にロシア軍の侵攻が始まると、シルスキーはまずザルジニーと共にキエフ防衛戦を指揮して勝利を収めた。2022年秋にはハリコフ方面の反攻作戦を敢行し、電撃戦を成功させて世界中を驚かせた。この反攻作戦においてウクライナ軍の機甲部隊突撃からソ連軍の風格がどこからともなく漂うのはシルスキーの学歴を考えると不思議ではない。平行して行われたヘルソン反攻作戦は主にザルジニーが指揮していたとも言われているが、シルスキーが指揮した痛快な快進撃とは対照的に難航が続いた。続くバフムート攻防戦ではザルジニーが早期撤退を主張していたのに対し、政治的な都合から死守を命ずる大統領府にシルスキーは迎合したようで、大兵力を投入してワグネルと死闘を繰り広げ、敗れた。ソ連軍の歩兵操典でも縦深防御を強調しており、機動を封じられるような狭い防御陣に押し込まれるのは避けるべきであり、また包囲されたり退路を塞がれる前に装備を完全に保持したままの撤退が好ましいとされている。現にシルスキーの元同僚、元学友が指揮するロシア軍の動きは教科書に沿ったものであり、ヘルソンにしろハリコフ方面にしろ、自軍が不利な態勢に置かれたと判断すれば要衝も素早く放棄して野戦軍の温存を優先してきた。にもかかわらずシルスキーはバフムートの死守にこだわり、陥落した後も執拗に反撃を試みて更に被害を拡大させたことから、ウクライナ軍兵士から「屠殺業者」と呼ばれることになった。このようにシルスキーの弱点は兵士からの支持、要するに士気である。犠牲を顧みない無慈悲な戦役指揮が21世紀の軍隊で兵士から人気がないのは当然である。経験の浅い新兵への依存が深まるにつれ、士気はともすれば戦線崩壊にも繋がり得る重大な弱点になる。

ザルジニーの評価

Syrsky and Zaluzhny
 ザルジニー大将の経歴の中で、ソ連軍エリート将校としてのカラーはシルスキーより遥かに薄い。1973年7月生まれのザルジニーはシルスキーより8歳年下であり、外見ではストイックなシルスキーと対照的な明るい大男である。軍人家庭で育ったシルスキーと違い幼少の頃から軍人を目指したわけではなく、高専で土木を専攻した。オデッサの陸軍アカデミーを卒業したのは1997年であり、本人は「ソ連軍のドクトリンの下で育った」と述懐しているものの、少なくとも名目上はソ連軍の士官学校で教育を受けていない。代わりにNATOに派遣されて西側の軍事訓練を受けた留学生の第一期生であり、親NATO色が付きやすいと広く見られてきた。ゼレンスキーが大統領に就任すると軍のNATO化改革が最優先課題になったので、それに主導する武装部隊総司令官にザルジニーが選ばれ、歳上のシルスキーを追い越して出世した形になる。だからと言って二人が不仲になった証拠はない。

 ザルジニーの指揮スタイルは明らかにシルスキーより慎重であり、将兵の生命を重視しているイメージが強いため兵士達から絶大な信頼を寄せられている。トップダウン型の指揮系統を強調するソ連軍のドクトリンから脱却し、下位の指揮官に権限と自主性を与えようとしてきた。バフムートの死守にも、航空優勢がない中でのザポリージャ反攻作戦にもザルジニーは早期から反対した。実際二つの作戦とも失敗に終わったため、ザルジニーの先見の明は輝いて見えた。このようにザルジニーはしばしば大統領府と意見が衝突し、それもまた兵士達からの信頼に繋がった。シルスキーは大統領府に対してより従順に見えたが、ソ連軍育ちのロシア系軍人という出自から政治の意思決定にまで首を突っ込まず、忠誠心を疑われるような行為を慎むのが当たり前だ。大統領府から見てザルジニーの慎重さよりもシルスキーのコストを度外視する勇敢さの方が「馬が合う」と感じたのかもしれない。「もっと兵士と砲弾をくれ」とばかり言ってくるザルジニーの総司令部を飛ばしてシルスキーの陸軍司令部に直接指示を飛ばしたこともあるという。
Nikkei Zaluzhny
 兵士だけでなくザルジニーの国民的人気も圧倒的でありシルスキーどころかゼレンスキー本人よりも国民の信頼が厚い。そのため大統領が総司令官の人気を警戒したとの観測まであるが、さすがにそれは一体どこの古代の王朝の話なのかと言いたくなる。大統領府がソ連軍の系譜を受け継ぐ軍を完全には信用していないのは恐らく事実で、しばしばマイクロマネジメントで前線の作戦行動に干渉してきたのもその現れである。実際野戦軍はともかく徴兵プロセスでの権力を盾に不正を働きついに上層部が全員解雇になった軍事委員会や、援助で運ばれてきた弾薬を横流しするウクライナ西部の軍組織の腐敗は目を覆いたくなるひどさであった。しかしザルジニーも、ともすれば旧態依然に見えた軍組織の中で若い将校を抜擢し旅団を新設してきた側であり、軍への不信の一環としてのザルジニーへの不信はなかったはずだ。むしろウクライナ軍の劣勢が明らかになるのに従いキエフの政府高官は「明るくて人柄は良いが、総司令官としては無能」とザルジニーの総司令官としての能力に見切りを付け始めた兵士達と違って高級将校団がザルジニーに冷めた目を向けているとの観測もある。また「諸兵科連合作戦を彼はついに上手く実行できなかった」との批判も出ていたが、これは諸兵科連合作戦を重視するソ連軍の士官学校を出ていないザルジニーの学歴からある程度想像はできるものの、基本的には言い掛かりである。制空権がないため攻撃ヘリを投入できず、榴弾砲も少数や単独で行動せざるを得ないウクライナ軍に連合作戦を取れるような「諸兵科」が存在するのか?

 ロシアのプロパガンダ機関はザポリージャ反攻作戦が始まった頃からゼレンスキーとザルジニーの不和を煽り続け、西側の情報機関もやや遅れてそれを追認した。敵のプロパガンダにわざわざ正当性を与えるほど、大統領府によるザルジニーの更迭に喫緊性があったとは思われない。より若いザルジニーを解任してシニアでソ連色が強いシルスキーに替えた大統領府の行動は、若返りでもなければ、より一層のNATO化改革の深化を象徴するものと主張するのも難しい。もっとも昨年末にザルジニーが寄稿でウクライナ軍の苦境を素直にオープンにしたのは批判に値する前回の記事でも述べたように、持久戦を目指すなら敵に戦意の喪失を悟られてはならない。大統領府の許可を得ずにエコノミスト誌に寄稿して自軍の士気と同盟国の支援意欲に冷や水を浴びせたとすれば更迭されてもおかしくない。しかし、思慮深いザルジニーがそのような凡ミスをするだろうか?
Zaluzhny
 最も合理的な解釈は、ザルジニー自身がこの戦争の先行きに悲観するあまり、自ら総司令官のポジションを投げ出した、ということになる2023年12月に軍から50万人の追加動員の要請があり、大統領府が国民からの批判を恐れてそれに難色を示したことが「両者の対立を決定的にした」と表現されてきた。敵の兵員増強が続く中、慎重なザルジニーはそれくらいの追加動員がないとこの戦争を勝ち抜けないと判断したに違いない。秘密主義と批判されがちなザルジニーのメディア露出(本来これは総司令官の仕事ではない)の多くは西側に先進的な兵器の援助を請うためだった。しかし、どうも米国の援助も止まりそうであり、従って今後問われるのが次々と投入される心が躍るような新しいハイテク兵器の運用法の開発ではなく、ただの凄惨な消耗戦であることが判明したとなると、ザルジニーに果たせる役割は自ずと限定されていく。まとめるとザルジニー大将の辞任は、ウクライナ軍がNATO化の推進と共にロシア軍に対して攻勢を成功させていくストーリーの終焉の象徴でもある

 シルスキーの就任と同時にウクライナ軍はオフィシャルに攻勢から守勢に転じたシルスキー自身も前線が極めて困難な状況に置かれていると認めた通り、新しい総司令部の初仕事は率直に言って敗戦処理である。守勢では新兵器を使った画期的な新戦法を組み立てるよりも、とにかく1,000キロ以上にわたる前線の弱点を見つけては対処するプロセスを根気よく続けることが求められる。敵の前線司令部は優秀であり、防御陣に綻びが見えたらすぐ犠牲を厭わず食い付いてくることが分かっている。上で見てきたように、戦術家としてのシルスキーの素養はザルジニーに劣るものではなく、総司令官の交替そのものが戦局の劇的な悪化に繋がると予想する理由はない前回の記事でも散々こき下ろしたように陸軍司令部の戦役指揮は全く凡庸で硬直的なものになっていたが、西側に対してアピールの仕方ばかり考えている大統領府のマイクロマネジメントさえ排除できれば、シルスキーにももう少し柔軟な作戦展開を実現させる機会が得られる。

アウディーイウカ

CNN Avdiivka Coke and Chemical Plant
 戦局がシルスキーの司令部に攻撃精神を発揮する余地を与えてくれるかどうかは微妙である。前回の記事でも触れたアウディーイウカは何のサプライズもなく陥落した。アウディーイウカ戦役にロシア軍中央軍集団は第2、第41両諸兵科連合軍をはじめとする12個旅団を投入したロシア側の発表では自動車化歩兵旅団7個、歩兵連隊1個、戦車連隊4個となってあり、総兵員数は2.7万から5万の間と思われる)。うち少なくとも3個旅団と2個連隊は旧ドネツク人民共和国軍であり、ロシア軍は一昨年にキエフ近郊で見かけた部隊名が多い。
110th Brigade
 2年以上も前からアウディーイウカ市街地の守備を担当し、攻防戦が本格化した後も交代させてもらえなかった第110機械化旅団では兵士の平均年齢は40-45歳になっていたが、激しい市街戦を経てその数さえも足りなくなったため、エンジニアなど陸戦の訓練を受けていない非戦闘要員まで最前線に投入された。陸軍司令部がザポリージャ反攻作戦を放棄した後は第47機械化旅団の一部が援軍に駆け付け、両翼を守る部隊まで含めるとウクライナ軍も当面の敵と同程度の兵力を揃えることができた。しかし既に三面包囲を完成させていたロシア軍は増援部隊が通る道路を砲撃し、最前線では誘導装置付き滑空爆弾の空爆で陣地ごと吹き飛ばした
FAB-500
 ウクライナ軍の防空火力の枯渇に伴いロシア空軍の活動が活発になっており、戦争開始以来恐らく初めてロシア軍が局地的な制空権を獲得したと米国の戦争研究所(ISW)も認めているウクライナ軍による前線での戦闘爆撃機の撃墜記録もロシア空軍の積極的な近接航空支援の存在を示唆する。ゆっくりとしか生産できない巡航ミサイルが貯まるたびにロシア軍がキエフをはじめとする大都市への空襲を繰り返してきたため、ウクライナ軍は限られた防空火力の大半を大都市に貼り付けざるを得ず、前線では敵の空爆に対して奇襲という形でしか反撃できていない

 アウディーイウカ戦役の展開は1年近くかかったバフムート戦役と比べて遥かに早かった。最初に燃えカスの山を占拠して市街地攻撃を本格的に開始する条件を整えたのは旧ドネツク軍の第114独立自動車化歩兵旅団であり、その勢いを借りた速攻は一度被害を出して頓挫したものの、先鋒の栄誉を他の旅団に譲る必要もないまま、第114独立自動車化歩兵旅団はアウディーイウカの中央突破で南側の市街地と北側の工場群の分断に成功した。後方に繋がる市内の鉄道に加えてメイン補給路の国道までロシア軍の個人携帯兵器の射程に入ると戦闘継続の困難さは一気に増した。市内各所に分断されたウクライナ軍はまたしても未舗装道路で補給や負傷者の後送を行わざるを得なくなり、元々少ない砲弾をすぐに使い果たした。2月に入ってウクライナ軍総司令部は東部戦線の唯一の予備兵力と言われる第3強襲旅団を増援に送ったものの、さすがに旧アゾフ大隊の生存者を中心に再建されたこの貴重な旅団を市街地の防衛に逐次投入するわけでもなく、第3強襲旅団は最低限の兵力だけで市街地の部隊の撤退支援に徹したようだ。それも早速一部の部隊を包囲され、増援どころではなかった。2/16にウクライナ軍総司令部はアウディーイウカからの退却を発表した。撤退は当然発表までには済んでいたが、それでもアウディーイウカ放棄の決断は誰の目にも遅きに失しており、既に重装備と共に整然と脱出することが難しくなっていた。戦前2,000人程度を擁していた第110機械化旅団はあまりにも長い戦いを経てほぼ壊滅したと広く思われている多くのウクライナ軍兵士は夜間に敵の砲撃を受けながらアウディーイウカ西方の平野を徒歩で横切らなければならなかった。アウディーイウカに続く道路はウクライナ軍兵士の遺体でいっぱいになった各所で取り残され捕虜になる兵士も続出した重傷を負った兵士も戦場に放置せざるを得なかった。これは手遅れになった後に徒歩でも概ね安全に撤退できたセベロドネツク、リシチャンシク戦役やバフムート戦役と違った。これまで兵力不足で市街地の端に国旗を立てたところで力が尽きることが多かったロシア軍に、撤退する敵の追撃と掃討を行う余裕が出てきたことを示唆する。

再び五正面作戦に

BBC Ukraine war
 アウディーイウカの陥落はウクライナ軍にとって致命傷にならない。バフムート、アウディーイウカ、マリンカといった旧ドネツク人民共和国の正面を抑える要塞の陥落は、せいぜいウクライナ軍の旧ドネツク人民共和国に対する攻撃態勢が破砕されたことしか意味しない。要するに、これまでのようにドネツク市の市街地を砲撃できなくなるだけである。ソ連軍時代ならこれから第114「アウディーイウカ」親衛自動車化旅団の肩書きを授かったであろう旧ドネツク軍の活躍が目立ったのも、ドンバス戦争以来アウディーイウカから10年間砲撃を受けてきた怨念からである。バフムート戦役の時と同様、要塞の陥落自体よりもそれに至るまでの野戦軍の消耗の方が遥かに痛い。バフムートが陥落した時は後方に総予備隊の第9軍、第10軍が控えていたが、今回は総予備隊もない。ウクライナ軍はほとんど全ての兵力を既に前線に貼り付けており、2023年のような大規模な反攻作戦を実行に移す可能性は少なくとも2024年中は考慮しなくてよい
NYTimes 5 places Russia is fighting
 対照的に兵力に余裕が出てきたロシア軍は5ヶ所で同時に攻勢を開始したシルスキーは「ロシア軍は全ての戦線で前進している」と表現した。まともな要塞攻撃能力を持つ部隊を全てかき集めた形になるバフムート戦役と大違いである。ザポリージャ方面のロシア軍は昨年の反攻作戦の終盤に増援にやってきた第76空挺師団を中核とする、アウディーイウカと並ぶ5万人以上を集結させて攻勢に出た。アウディーイウカ戦役の終了も待たないままザポリージャ方面の攻勢が開始されたのはウクライナ軍司令部の予想を超えたらしく、2023年の大反攻作戦でウクライナ軍が多数の犠牲と引き換えにスロヴィキン・ラインに開けた穴は再び北上を始めたロシア軍によって塞がれつつある東部戦線のバフムート周辺には更に8万人が展開している
ISW Russian Axis of Advance
 北方のクピヤンスク方面にはこれまた4万人が集結しており、ゆっくりとクピヤンスクに迫りつつある隣のクレミンナ~リマン方面まで含めると11万人が展開しているクピヤンスク近郊にはウクライナ軍もこれまで致命傷を受けて来なかった第3、第4戦車旅団をはじめとする10個旅団を展開した。もっともこの方面のロシア軍はハリコフ反攻作戦の時にまるで役に立たなかった西方軍集団であり、見かけ倒しの極致である第1親衛戦車軍も含まれている。今回の冬季攻勢がクピヤンスク大会戦でクライマックスを迎えるとは想像しづらい。ザポリージャ戦線のロシア軍もスロヴィキン・ラインの修復以上の用意をしていないはずだ。もうすぐやってくる春の泥濘期はロシア軍の進撃を遅滞するだろう。
Lemonde Syrsky
 ウクライナが保持する国土はまだまだ広く、防御縦深は喪われていない。オスキル川とドニエプル川という不動の自然国境をロシア軍が簡単に越えられるとは思えない。キエフは言うまでもなく、ハリコフ市とオデッサ市も戦場からまだまだ遠い。シルスキーの新しい総司令部はいつでも戦線を整理して自然国境を頼りに守勢で持久戦に入る自由を保持している。現に西側に対してアピールしているクリミア攻略ストーリーの維持のためだけに続けられていたドニエプル川東岸の無益な戦闘は放棄された。アウディーイウカの放棄も遅すぎたものの、少なくとも新司令部が着任早々要衝を失いたくないという政治的な打算を軍事上な判断より優先させはしなかったことが分かる。もっともウクライナ軍にとって2024年の最善の展開が持久戦という現実もまた既に確定している。2024年中はとにかく手持ちの兵力でロシア軍の攻勢を食い止め続けなければならない。次の反攻作戦で国土回復を視野に入れられるのは2025年以降になる。もし一部観測のように大統領府がシルスキーを起用したのが2024年中の攻勢再開のためだったとすれば(ザルジニーは当然攻勢再開など到底無理と判断した)、その無理な攻勢は2023年のものと同様、ウクライナ軍の将来の防御態勢を更に不利にし、不本意な形での戦争の終結を早めるものになる。もし米大統領選でトランプが勝てば2025年の反攻作戦再開も覚束なくなる。持久戦では軍組織さえ自壊しなければ不利でない形で続けられるが、いわゆる反攻作戦による国土回復が絶望的になるとウクライナにとって戦争を続ける意義はない。

 火力で劣勢に立つウクライナ軍が可能な限り野戦を回避し、どうせどこかで防衛戦をやることになるなら野外よりも都市のコンクリート群を選好するのは合理的であった。ロシア軍も戦争初期は兵力不足もあって市街戦への突入を躊躇した。しかしバフムート攻略戦から「敵が市街地に籠るならまず両翼の高地を攻略し、三面包囲で火力の優勢を作って敵軍を消耗させる」王道パターンを学習している。ウクライナ陸軍司令部は三面包囲に対する有効な対抗策を編み出せず、ワンパターンな敗北を繰り返した。バフムート、アウディーイウカ、マリンカの各都市を要塞化するだけでなく、スロヴィキン・ラインがそうしたように、それらを線で繋いで弱点を取り除かなければならなかった。せっかく世界大戦の頃と比べて土木作業の効率が格段上がっているので、防御戦を行う前線の後方で次から次へと新しい防御線を構築すべきであるが、ドンバス戦争時代からの要塞を除いて全体的に防御築城の不足が目立つ。援助する側も兵器や砲弾の量産が間に合わないならせめて大量の重機を送るべきだ。ロシア軍がせっせと塹壕を掘っていた間にウクライナ側の関係者全員がそれを怠ってきたのは、少数の新兵器で戦局を変えられる(ゲームチェンジャー)との妄想に囚われ、陸戦の現実を直視して来なかったからである。

 戦略以前に、ウクライナ軍にとって軍組織の維持そのもののための闘いも始まっている。開戦当初から軍に志願した士気旺盛な若者達は既に最前線で交替を待っている状態であり、或いは既に戦死か負傷しており、新たな志願兵を見つけるのが難しくなっている。徴兵事務所の職員が町にやってくると人々はSNSでその情報を共有しながら逃げ出した。徴兵逃れのために大学に進学するムーヴはロシア、ウクライナ両国共通である反攻作戦の失敗でこれから控えているのがヒーローがいない苦しい持久戦であることが判明すると、市民の参戦意欲は更に悪化した徴兵事務所の職員が街で男性を無理やり連行することもあった毎晩のようにウクライナ人男性が泳いでルーマニアに逃亡しているウクライナ国内に47万人を展開させているロシア軍に対して、ウクライナ軍は約60万人と総兵員数でも大して優位に立てておらず、火力の格差を考慮すると守勢を維持するのが精いっぱいだ。あまりにも無理な作戦が続き生還が絶望的になったりローテーションの当てがないと1917年のフランス軍やロシア帝国陸軍のようになる可能性も出て来る。またローテーションがないと最前線にいた兵士が戦場の経験を新兵に伝授できないまま消耗していくため予備部隊の編成も困難になる。ガザ紛争と米議会のせいで米国の追加軍事支援はまだ目途が立たない。弾薬は多い少ないの問題ではなく、一旦NATO軍の装備を導入した以上、NATO軍規格の弾薬や予備部品の供給が滞ると旅団ごと一気に行動できなくなってしまう。唯一のまともなゲームチェンジャーになりそうなF-16の実戦投入は夏以降、それもパイロットが1期4名なので最大でも4機ずつというやる気のなさである。挙句の果ての総司令官の更迭騒ぎである。悪化が止まらない環境の割りにウクライナ軍が継戦能力と士気を概ね維持できているのは奇跡にさえ見える。

関連記事

ウクライナ軍が反攻作戦で闘争心を使い切る 



これより先はプライベートモードに設定されています。閲覧するには許可ユーザーでログインが必要です。


この記事は投資行動を推奨するものではありません。