雇用者数が再び跳ねた「2024年の春」

Bloomberg NFP
Bloomberg ADP Nonfarm
 米国の雇用に本ブログが注目しなくなって久しい。2023年中は新規雇用者数をNFP(Non-Farm Payroll、米国非農業部門雇用者数)で見てもADP雇用統計で見ても金融引締めの影響で低調さが続いた。しかし2024年春になるとどちらも盛り返しており、元々遠かった雇用の緩みがもたらす景気減速への望みが更に遠ざかった形になる。「2024年春の改善」は他の米国の指標とシンクロしたものであり、これだけ雇用が堅調だと労働市場の逼迫の解消は遠ざかり、賃金インフレが再燃して「Fedは早期に利下げできないのではないか」という懸念が再び持ち上がった。

JOLTSと失業率

FRED unemployment rate
 もちろんそれは勘違いであり、雇用者数以外のどの指標を見てもインフレーショナリーにはなっていない。絶対水準はまだまだ低いものの、失業率は淡々と上昇している。正社員になりたいのにパートに甘んじている労働者を「広義の失業者」とカウントしたU-6失業率は明瞭に上昇している。パートの求人は溢れていても、正社員の椅子を探すことは少しずつ困難になってきた。
Bloomberg JOLTS
 雇用動態調査(JOLTS, Job Openings and Labor Turnover Survey)の求人件数は多少の上下を残しながらも一貫して減少している。Fedが好んで使う「JOLTS求人 ・失業者数比率」は極端な求人件数超過からようやくパンデミック前の水準まで戻ってきた。もちろん埋まっていない求人はまだまだ多数残っているため、失業者が急増して景気後退などという局面まで相当の距離があるのは間違いなく、この距離を過小評価すべきではない。求人プールは景気後退を回避する厚いバッファになる。

賃金の上がる仕組み

Bloomberg US Quit Rate
 一方でパート職が構造的に足りていないのは事実であるが、一般的に低賃金職の労働力供給が構造的に逼迫したところで、それが逼迫していない高賃金職の賃金を押し上げるには至らない。賃金が上がるのはあくまでも高賃金職が引っ張りあげないといけないからだ。ゲーリー・ベッカー米シカゴ大教授の人的資本モデルでは教育や訓練により人的資本が高まり、それに基づき賃金が上昇するとする。マイケル・スペンス米NY大教授のシグナリングモデルでは個々人は教育投資の効果に関する自己選抜をし、進学・就職などを選択することが賃金の差を生むとする。レスター・サロー米MIT教授の仕事待ち行列モデルでは限界生産物は個人にではなく仕事に固有のものであり、経営者は学歴などの特性をシグナルとして個々の労働者に特性を応じて仕事を配分する。低賃金職の固有の生産性が高賃金職のそれを追い越して高賃金職と競合を始めるストーリーよりも、高賃金職の賃金高騰が予想される訓練費用を超えたことによりシグナリングの必要性が薄まる構図の方が納得しやすいのではないか。つまり高賃金職の椅子が空くことで、それまで低賃金職を分配されていた労働者も転職を通して高賃金職の椅子を手に入れることができるようになる。その玉突きが様々な賃金層をトリクルダウンしていく。
Bloomberg quits professional and business service
 これらのモデルにおいて学歴をはじめとする「特性」がシグナリングするのはあくまでも「訓練費用」であり、個々の労働者が企業にもたらす将来の収益や貢献ではないことに注意すべきだ。個々の労働者が企業にもたらす収益や貢献は椅子に固有のものであり、従って個々の労働者が企業にもたらす収益は椅子を巡るゼロサムゲームの結果によって決定され、個々の労働者が考慮すべき競争の大半は、説得力のある訓練費用の少なさアピールを通して椅子を巡るゼロサムゲームに勝利したところで終了する。本邦でもアクセンチュアを筆頭とする外資系コンサルティング・ファームが新卒・第二新卒層を大量に採用し始めた影響で、伝統的な大企業も新卒・第二新卒層の待遇の改善を余儀なくされている。その際に会社の業務を支える柱である中堅社員の待遇改善が後回しにされ、新卒・第二新卒層との差が縮まることになったのは、彼らが外資系コンサルティング・ファーム等の固有生産性が高い椅子に採用されづらいことによって説明される。若手行員をごっそり外資系コンサルティング・ファームに取られた都銀は地銀の若手行員を中途採用して欠員を埋めるので、界隈全体の賃金が上昇していく。いずれにしろ、賃金上昇は主に固有の生産性が高い職種への転職によって達成されるため、離職率は賃金上昇の先行指標になる。離職率が低迷している間は賃金インフレを懸念する必要がない。賃金ピラミッドの頂点に位置する巨大企業の雇用や賃金は、高金利政策が強制する株価維持のためのコスト削減によって継続的に抑制されており、高給ホワイトカラーのキャリアアップは一時期より困難になった。

平均時給の減速

Bloomberg US average hourly earnings
 平均時給の減速は続いており、前年比でも4%を割り込んできた。注意すべきは、単純な平均時給統計は職種分布の変化の影響も受ける(相対的に低賃金職が増えると伸びが鈍化する)ため、賃金トラッカーの方がよりノイズが少ない。
Atlanta Fed Wage Growth Tracker
 アトランタ連銀の時給トラッカーも何の疑念もなく淡々と減速しており、直近で前年比+5.2%となっている。もちろんまだまだ高いものの、少し前から予想された最善のペースでの下がり方ではないか。賃金上昇は主に(人手不足になったより高い賃金の職種への)転職によって実現しており、従って離職率と賃金上昇は連動することが分かっている。離職率は淡々と低下している限り、賃金が急に再び伸び始めるとは考えづらい。
Business Insider wage trackers
 アトランタ連銀の賃金トラッカーを更に大手求人サイトIndeed社の賃金トラッカーが先行することが知られている。Indeed社の賃金トラッカーは淡々と減速している。これだけ傍証が揃っていれば、賃金伸び率の減速が続くとの確信がブレることはない。

総労働人口の増加

FRED Labor Force and Participation Rate
 一方、人手不足が続いていたのも事実である。2022年には労働参加率のピークアウトによる労働需給の逼迫が話題になった。あれから労働参加率がじわじわとは戻ってきたものの、株高が続く中FIREしたベビーブーマーの労働復帰はもう諦めるしかないだろう。更に景気後退がやって来ない中でNFPは堅調な数字が続いた。にもかかわらず、労働逼迫は悪化するどころか緩和し、賃金上昇の減速は続いたのである。生産年齢人口(Working-Age Population)が2022年以降、大幅に増加したためである。その結果、労働参加率が伸び悩んでも総労働人口(Civillan Labor Force)が増え続けた。NFPの増え方は生産年齢人口の増え方とシンクロしていたにすぎないのである。

移民の復活

WSJ CBO US potential labor force
 労働需給が再び緩和し始めたのは移民が大挙して合衆国に入ってきたためである。元々パンデミックからの回復局面で移民が減少したのは、トランプ政権が2020年3月にパンデミック対策のために合衆国法典第42章(公衆衛生サービス法、タイトル42)に基づき移民希望者を強制送還していたためである。バイデン政権になってもタイトル42はしばらく発効していたが既に2022年から移民の入国は再び増え始め、2023年5月になると公衆衛生緊急事態宣言の終了と共にタイトル42に基づく国境管理措置は失効し、多くの移民が米国に押し寄せた。米議会予算局(CBO)は今年2月に移民の流入増を考慮して米国の潜在的労働力人口を上方修正し、また平均年間賃金の長期予想を下方修正した労働力人口の増加は実質成長の加速に繋がり、景気後退懸念を低下させる文脈でNFP雇用数の「ホットさ」は意味を持つ。しかしそれは「労働需給の逼迫に伴う賃金インフレ」にだけは繋がらなかったのである
Kansascityfed immigrant workers
 移民と労働市場の問題については各連銀も調査を続けており、2022年時点では「移民の減少」も労働力不足の理由に挙げられていた移民流入が再開すると労働市場の逼迫は解消に向かった。州ごとの分布を見ても職業ごとの分布を見ても移民の増加は賃金伸び率を(多少)鈍化させることがカンザスシティ連銀の論文から分かっている。インフレの解消は往々にして実質成長を伴うプロセスであり、移民増加による雇用逼迫の解消もそれに当てはまる。賃金ピラミッドの先端が高金利政策によって抑制され、一方で高金利政策になったところで足りないものは足りないと言われてきた低賃金職も移民によって埋まるとすれば、残ったのはただの実質成長である。NFPが減らないからと言って引締めが足りないということにだけはならないのである。元よりFedがソフトランディングを目指している以上、実質成長の堅調さと景気後退の可能性の剥落だけではFedに積極的なスタンス変更を迫る理由にならない。である以上、例えば昨年末と比較して雇用と賃金の分野で何か注目に値する異変があったようには思われない。ダブルマンデートの片翼はFedの利下げ転換を全く妨害していないのである。

要約

・労働需給が逼迫した2022年以降、米国の雇用者数は安定して増加
・求人・失業倍率は安定して低下、平均時給の伸びも安定して減速
・離職率とIndeed賃金トラッカーは先行指標であり、これらも減速を示唆
・雇用者数の増加は移民の流入に伴うものであり、失業率は同時に上昇
・生産年齢人口と総労働人口が同時に増加したため、雇用の逼迫を意味しない
・生産年齢人口の増加は実質成長にとってポジティブであり景気後退を遠ざける
・雇用の面からFedに金融引締めの終了予定の変更を迫る要素は何もない

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この記事は投資行動を推奨するものではありません。