Bloomberg US jobs figures
 米国の雇用とそれを気にしはじめた金融政策について。6月の雇用についての記事では賃金インフレは何の疑念もなく減速していると述べた7月FOMCの前の記事ではFedが利下げに転ずる前後に催促相場になる可能性を取り上げつつも、7月FOMCでタイムリーに9月利下げへの道を開ければ回避できるだろうとしていた。実際、9月利下げを明言まではしなかったものの、7月FOMCではこれまで物価上昇リスクの対処を優先してきたのに対し、上下両サイドのリスクに留意するということで、久々に物価目標と雇用最大化のデュアル・マンデートに回帰した。これにより「景気後退を招いてもFedはインフレ退治を優先して利下げできない」との都市伝説は正式に歴史のゴミ箱に放り込まれた形となる。
Sheeps
 FOMCは円満に通過できたと思われたが翌週、7月の雇用統計は予想以上に速い悪化を示しており、これまで聞いたこともないサームルールというものでどうやら景気後退まで決まったらしいということで、既に完璧に織り込まれていた9月25bp利下げさえも、臨時会合での緊急利下げや50bp利下げを求める催促相場の攻撃に晒されることになり、日米の株式指数は大きく調整した。

サームルールとは

FRED Sahm Rule
  サームルールはかつてFedエコノミストだったClaudia Sahmによって2019年に、景気後退を早期に検知し、迅速な政策対応を促すために設計された新しめの指標である。具体的には、過去12か月の最低失業率と比較して、3ヶ月平均の失業率が0.5ポイント以上上昇した場合、既に景気後退が始まっていると判断する。このルールは1970年以来、すべての景気後退を正確に予測してきたという。FREDのチャートで言うと、緑色のサームルール・インジケーターが赤いスレッショルドを下から上に切るたびにグレーのリセッション期間がやってきている。

 サームルールの点灯は理論的には米国経済が既に景気後退に差し掛かっていることを意味するので、ビハインド・ザ・カーブ懸念、つまりFedは結局引締めすぎて(利下げが遅すぎて)既にリセッションを招いてしまっていた懸念が高まり、ビハインド・ザ・カーブ懸念は長期金利の4%割れと株式指数のそれなりのクラッシュを招いた。しかしつい数ヶ月前まで「賃金インフレは収まらないからFedは利下げできない」などという謬見が飛び交っていたわけであり、「賃金インフレは収まらない」と言っていたその口で今度はサームルールを懸念し始めたとすればあまりにも滑稽ではないか。

産みの親の証言

Bloomberg unemployment rates in prior recessions
 生みの親であるサーム氏の評価が最も頼りになるはずだ。サーム氏は先週"My Recession Rule Was Meant to Be Broken"と題する文章を寄稿しているサームルールを成り立たせる「小さな失業増が大きな失業増に繋がる」フィードバック・ループは、失業が増えることで消費が鈍化し、その鈍化が更に多くの失業に繋がる、というものである。また失業率の上昇が起きている時は失業そのものではなく、昇給や就職機会の減少、さらには全体的な不確実性の高まりを伴う。1947年からグローバル金融危機に至るまでのリセッションの多くでは、失業率の上昇は最初は緩やかに始まり、徐々に加速してきた。上の仕組みから失業率の絶対水準ではなく変化幅が重要である。その後のフィードバック・ループをもたらすのは変化幅だからである。議会予算局(CBO)によると自然失業率(NAIRU)は労働者の高齢化とそれに伴う熟練化などを背景に1970年代の6%超えから昨年の4%に低下しているため、特に遠い昔のケースの失業率の水準を今と比較しても仕方がない。
Bloomberg immigrants labor force
 さて、7月の4.3%の失業率はサームルール指標をスレッショルドの0.5を超える0.53まで持ち上げた。しかし今回は違う可能性がある(Things might be different this time)。なぜなら今回の失業率上昇を招いたのは(解雇の増加や労働力需要の減衰ではなく)移民受け入れの増加だからである。サームルールはこれら二つの動態(労働需要の減少と労働供給の増加)を区別せず、労働力が急速に拡大している時にも不吉に見えることがある

 ここまでがサーム氏自身の記述である。本ブログの読者であればどこかで見たことがあるロジックではないだろうか?なぜならこれは6月の記事「米国の賃金インフレは何の疑念もなく減速」で描かれた労働市場像そのものだからである。6月の記事の要点は

・労働需給が逼迫した2022年以降、米国の雇用者数は安定して増加
・求人・失業倍率は安定して低下、平均時給の伸びも安定して減速
・離職率とIndeed賃金トラッカーは先行指標であり、これらも減速を示唆
・雇用者数の増加は移民の流入に伴うものであり、失業率は同時に上昇
・生産年齢人口と総労働人口が同時に増加したため、雇用の逼迫を意味しない
・生産年齢人口の増加は実質成長にとってポジティブであり景気後退を遠ざける
・雇用の面からFedに金融引締めの終了予定の変更を迫る要素は何もない

であり、当時はまだ賃金インフレ的な観点から増加を懸念されていたNFPの数字を無視するよう提唱した。雇用者数の増加は移民の流入に伴うものであったためである。同時に労働需要の紛れもない減速を確認しつつ、生産年齢人口の増加は実質成長にとってポジティブであり景気後退を遠ざけるものであるとも述べた。サーム氏の寄稿を輪読した後も、上記の労働市場像を修正する必要が全くないことに気付くだろう。それは当然であり、なぜならこちらが王道、正道だからである

労働供給増説を補強するInitial Claim

FRED Initial Claims
Challenger Announced Job Cuts
 8月に入って発表された新規失業保険申請件数(Initial Jobless Claims)の伸び悩みは景気後退を覚悟した市場参加者を更に混乱させた。上昇のペースを速めつつある失業率とどう整合させるのか。米国の労働市場を「減速しつつも概ね堅調な需要」と「移民流入と共に爆増しつつある供給」に分解する本ブログの労働市場像では、この組み合わせは当たり前である。なぜなら新たに流入した移民のような、一度も働いたことがなく初めて積極的に仕事を探している労働者は失業率の計算には含まれるが、失業保険受給には労働履歴が必要であるため新規失業保険申請件数には反映されないからである。物価高騰など他の理由で久々に職探しを始めた労働者も同様に寄与する。従って新規失業保険申請件数が反映するのは労働市場の需要の方であり、概ね解雇の勢いと等しい。新規失業保険申請件数とチャレンジャー人員削減数のチャートは何となく形が似ていることも、この解釈を補強するだろう(2023年夏にはどうも小さな解雇の山があった)。方向が矛盾するのだから新規失業保険申請件数と失業率のどちらかが間違っている、という悩み方は的外れである。
FRED JOLTS and unemployment level
 とはいえ、例えば継続失業保険受給者数を見ても、労働需要が総じて徐々に緩みつつあることは間違いない。失業率の上昇が物語っているのは、その減速しつつある需要を、移民流入(総労働人口増加)の勢いが上回りつつあるということではないか。需要側が静的でないのが話をややこしくしているが、総じて労働需要が健在ならば、時間が経って移民が職業訓練(英語など)を済ませれば一時的な失業率の上昇は減速するだろう。Fedも重視しているJOLTSと失業者数の比較では、JOLTSの減速と失業者数の増加により乖離(余剰求人)が急速に狭まりつつあるが、まだ逆転してはいない。もっとも今後も移民の流入が止まらない場合、景気サイクルが上向かない限り、いずれ新たな求職者を吸収し切れなくなる可能性も残る。そうなれば実質成長が人口増である程度維持されながらもデフレ的な傾向を強めるだろう。いずれにしろ確実に言えるのは、賃金インフレにだけはならなそうということである6月の記事でも同じことを述べてきたが、それを今ここでより力強く繰り返すことになる。
FRED Hiring rate
 サーム氏もサームルールの機械的適用に対して反論を示した後、景気後退のリスクが全く否定されるわけではないと述べている。1970年代でも総労働人口が増える中で景気後退に陥った。採用率(採用率=採用数/雇用者数)は失業率が6%だった2014年並みの低水準である。幾つかの指標は労働市場の需要の減速をも反映している。解雇は遅行指標なので、増えていなければ景気後退がないわけではない。

ベバリッジ曲線

WSJ Beveridge Curve
 サームルールも示唆するように――今であるかどうかはともかく――失業率が上昇する時は突然、急速に上昇することが分かっている。それを毎回の雇用統計で警戒させられてはたまったものではない。総労働人口の増加が需要減にぶつかって失業率が劇的に増加し始めるのはいつ頃だろうか。Fedが重視するJOLTS / 失業者数レートを欠員率と失業率の二次元に展開したものがベバレッジ曲線である。欠員率は総求人数 / 総雇用者数 +総求人数というシンプルな除法で算出される。パンデミックからの回復期では失業率が失業率が高止まりしたまま欠員率が上昇する局面があった。ブランシャール元IMF調査局長やサマーズ元米財務長官といった小うるさいOB達は2022年にベバレッジ曲線は右上にシフトしたのではないか、つまりマッチングの悪化(人材の再配置の増加とマッチング効率の低下)が起きているため、失業を増やさずに欠員を埋めることができないと主張した。これは株式投資家としての本ブログが憎悪してきた「失業を増やさずに(景気後退を招かずに)インフレを抑えることはできない」主張の本丸であった。しかしFedのウォラー理事らはソフトランディングの可能性を信じ続けた。結局あれから2年経ってみると、ただ財政出動がもたらした好景気の結果として求人が多すぎただけであったことが分かっている。つまりブランシャールとサマーズの危惧は的外れであり、ベバリッジ曲線は右上にシフトしていなかったのである
Beveridge Curve
 手作業でベバリッジ曲線を2024年6月まで伸ばすと完全にパンデミック前と重なっており、パンデミックが作った環は完全に閉じた。つまりパンデミック前と後とではマッチングに関する何ら構造的な変化が起きておらず、2022年は単に景気が良すぎただけである。パンデミックで一度右側に飛び出たのも、その後失業率6%レベルで上方に向かったのも、経済環境の変動が求人の充足速度や労働者側の柔軟性を上回ったためにすぎない。2023年に引締めが効いてくるにつれてプロットはベバリッジ曲線を垂直に降りてきた。それでも2023年中に失業率があまり上がらなかったのは、ベバリッジ曲線が右下がりの直線ではなく曲線であることから当然であった。失業率が非常に高い場合、少しの求人でも大きな効果をもたらす一方、失業率が低い場合には求人が増えても効果が小さくなることが分かっている。逆に言うと、あまりにも余っている求人が少し減ったところで失業率は動かないのである。金融引締めが効き出すまで、我々は莫大な余剰求人が少しずつ減るのを根気よく待たざるを得なかった。今のところ失業率の上昇はまだ余剰求人が少なすぎるからではなく、どちらかというと労働者の供給増によるものが大きいだろう。では需要側の求人がどこまで減れば失業率が不安定になりやすいか。ベバリッジ曲線を眺めていると何となく欠員率4%が境目になっており、4%を上回る部分では曲線は垂直に近く(求人が更に増えようと減ろうと失業率は動かない)、4%を下回ると右肩下がりになっている(失業率のセンシティビティが一段と上がる)ように見えるのではないか。直近(2024年6月)の欠員率は4.9%である。

 非常に雑に総雇用者数が一定として計算すると、JOLTSが今の818万人から概ね660万人まで減少すれば失業率の上がり方は今より一段とギアアップしやすくなるという結果を得る。分母に入っている総雇用者数が増えれば増えるほど労働需給が緩むのでJOLTSのスレッショルドは更に上昇する。今のトレンドだと欠員率が1%低下するのに半年かかっているため、2024年年末あたりにはベバリッジ曲線上の失業率が不安定化するポイントに差し掛かるのではないか。今の総失業者数は716万人であり、JOLTSが660万人に減るまでにもう少し増える余地があるだろうから、「総失業者数>JOLTS」となるタイミングの方がだいぶ早い。つまり総失業者数とJOLTSが交差するタイミング以降に雇用市場の本格的な減速を体感できるようになるし、その前にいきなり景気後退がやってくるということはない。JOLTSと総失業者数の交差は金融市場にとっても反応しやすいタイミングとなるだろう。或いは今のところ低迷している新規失業保険申請が急に跳ね上がるような局面が来ればベバレッジ曲線上の遷移が早まる可能性もあるが、解雇件数も低迷しているためそのシナリオに今からベットするほどではない。

金融政策への翻訳

 以上の議論を金融政策に落とし込むと、サームルールで景気後退が決まったからインターミーティングの緊急利下げが必要という議論は前のめりであり、なぜなら今回は違う点もあるからだ。9月FOMCでの25bp以上の利下げは確実になったと思ってよい(「株が高い」程度の認識で「今年利下げなんてできないと思うよ」と言っていた金融政策に疎い人々も、株式指数の催促相場に肝が冷えただろう。彼らのビューはそれほどまでに無節操であり、デュレーションを持つ予想の重みというものを分かっていないのである)が、サームルールのせいで9月利下げもビハインド・ザ・カーブ懸念が出ており、7月FOMCから9月FOMCにかけての長い2ヶ月間、更に一歩進んで50bp利下げを求める催促相場が続いている。9月FOMCがどちらに出ようと、催促相場の要求通りにしないと本当にクラッシュするほど需要側に急激な変化はない7月FOMC前の記事でも述べたように、パッシブ・タイトニングの調整だけでも2024年中の少なくとも75bpの利下げは確約されたようなものであるが、それが終わると、或いは終わる前から雇用の減速を理由とする利下げが更に続く。そして計25bp x4回以上の利下げまで確定しているようなら、4回のFOMCは4ヶ月以上にわたるため、その間の経済環境の悪化を待たずに先に50bp利下げを行ってしまった方が不確実性を払拭できる。従って9月になるかどうかはともかく50bp利下げ織込みには一定の合理性がある。

 中立金利の考え方も大幅利下げを後押しする。前回の記事で述べた通り、インフレ率が高ければ高いほど、それは金融緩和が効いていない=中立金利も高いことを意味するので、名目の政策金利はインフレ分と中立金利の上昇分を同時に引き上げなければならない。それだけに、一旦景気が減速してインフレが目標に近付いた場合、インフレ率の低下に加え、インフレ率の低下によって政策金利が中立金利より高かったことも同時に判明するので、名目政策金利を引下げる時も倍速になる。引締め期の最後になると、緩和が遅すぎたというビハインド・ザ・カーブ懸念が持ち上がらないためには政策金利を速やかに引き下げなければならないのである。25bp x3のパッシブ・タイトニング調整期にかけては金利低下を受けて急に景気が内生的に持ち直す理由もないので、雇用の減速はこれまでのペース通りとなる可能性が高く、年末年始のベバリッジ曲線の変曲点到達はそれなりに高い蓋然性を持つ。その時点で金融政策は「引締め的」でなくなるべきである。そこで雇用が持ち直した場合(ソフトランディング)は一旦立ち止まる余裕が出てくるが、仮に来年のどこかに「欠員率3~3.5%、失業率5%」の組合せ、つまり過去の景気後退に近い失業率に到達した日には、中立金利が2%以上に上昇したのではないかなどというたわけた議論も確実に吹っ飛ぶため、2%PCEのインフレ目標は当然達成するとして、政策金利は当然3%台に低下していなければならないだろう。逆にこのように政策金利をほとんど際限なく引き下げる余地があるため、サームルールだけを見て景気後退が避けられないと見るのは時期尚早である。景気後退を招き得るのはFedがとうに終わったインフレを気にして素早い利下げペースを実現させなかった場合である

要約

・サームルールが発動した背景の大半は解雇ではなく労働者供給増によるもの
・サームルールの背景にある消費減、雇用減のスパイラルが走り出すとは限らない
・直ちに景気後退に繋がるわけではないが、労働需要は徐々に減速はしている
・新規失業保険申請件数は解雇件数に近く、失業率の乖離は説明可能
・賃金インフレにだけはならないだろう
・ベバリッジ曲線の環が閉じたことでインフレ退治に景気後退が必要とする説は敗北
・今後の雇用減速イベントはJOTLSと失業者数の交差、ベバリッジ曲線の変曲点通過
・年末年始にベバリッジ曲線は変曲点(欠員率4%)を通過する可能性が高い
・75bpの調整利下げの後に控えているのも利下げ
・従って50bp利下げは催促に応じないとクラッシュするほどではないが合理的
・サームルールだけを見て景気後退が避けられないと見るのは時期尚早

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